1199年 (建久10年、4月27日改元 正治元年 己未)
 
 

12月5日 [皇帝紀抄]
  盗賊十九人、東国の武士等に下し遣わす。四條河原に於いてこれを請け取る。
 

12月9日 丁卯
  梶原平三景時一宮の所領より鎌倉に帰参す。
 

12月18日 丙子
  景時が事、諸人の連署状に就いて、日来連々沙汰を経られ、遂に今日鎌倉中を追い出
  さる。和田左衛門の尉義盛・三浦兵衛の尉義村等これを奉行す。仍って相模の国一宮
  に下向す。その後彼の家屋を破却し、永福寺僧坊に寄付せらると。
 

12月26日 天晴 [明月記]
  遣伊勢御厨使今日帰来す。百姓等出逢うと雖も、地頭を恐るに依って、当時供給に預
  からずの由返答すと。使者また歳末講無答に及ぶの由空しく還りをはんぬ。改年以後
  猶下向すべしと。
 

12月29日 丁亥
  小山左衛門の尉朝政を以て播磨の国守護職に補しをはんぬ。住国の家人等朝政に相従
  い、内裏大番を勤仕す。惣て忠節を致すべきなり。朝政が沙汰すべき事は、謀反殺害
  人の事ばかりなり。国務に相交わり、人民の訴訟を成敗すべからず。凡そ事に触れ国
  中の住人を煩わすべからざるの旨仰せ含めらると。