1200年 (正治2年 庚申)
 
 

1月1日 戊子
  北條殿椀飯を献らる。
 

1月2日 己丑
  椀飯、千葉の介常胤。

[玉葉]
  宗頼・範光等談りて云く、関東兵乱の事、申し上げるの旨有りと。梶原景時他の武士
  等の為に猜悪を被る。この事を欝すに依って、頼家弟童(名千萬、主君たり)を以て、
  頼家を伐つべきの由、武士等結構するの旨これを讒す。即ち他の武士等に問わるるの
  処、景時に召し合わさるべきの由を称す。忽ち以て対決するの間、景時舌を巻く。謀
  讒忽ち顕れ、景時併せて子息等、皆悉く境内を追い払われをはんぬと。
 

1月3日 庚寅
  椀飯、三浦の介義澄が沙汰なり。
 

1月4日 辛卯
  兵庫の頭廣元朝臣御椀飯。
 

1月5日 壬辰
  椀飯、八田左衛門の尉知家が沙汰なり。
 

1月6日 癸巳
  相模の守惟義朝臣御椀飯なり。

[明月記]
  聞書を見る。正二位通資(去年朝覲行幸院司と)、従三位家経、従四位上良輔(労)、
  源頼家(院当年御給)、籐兼基、丹波経基(医道)、籐公信(皇后当年給)、(以下略)
 

1月7日 甲午
  小山左衛門の尉朝政椀飯なり。
  今日吉書を覧玉う。廣元朝臣これを奉行す。次いで御弓始め有り。二五度これを射る。
  矢数有り。射手例に任せ禄を預かる。
  射手
   一番 榛谷の四郎重朝    八田の六郎知尚
   二番 小鹿嶋の橘次公業   藤澤の次郎清親
   三番 工藤の小次郎行光   加藤の彌太郎光政
 

1月8日 乙未
  椀飯、結城の七郎朝光これを沙汰す。
  今日営中の心経会なり。鶴岡の供僧等これに参勤す。法眼行慈導師たり。
 

1月13日 庚子 晴、夜に入り雪下る。殆ど尺に盈つ。
  椀飯、土肥の彌太郎沙汰なり。
  故幕下将軍周関の御忌景を迎え、彼の法華堂に於いて仏事を修せらる。北條殿以下諸
  大名群集し市を成す。仏は絵像の釈迦三尊一鋪・阿字一鋪(御台所御除髪を以て、こ
  れを縫い奉らる)。経は金字の法華経六部・摺写の五部大乗経。導師は葉上房律師栄
  西、請僧十二口。
  布施
   唱導分
    錦の被物十重     綾の被物二十重     帖絹百疋
    染絹百端       綿千両         糸二千両
    白布百端       紺布百端        藍摺二百端
    鞍置馬十疋
   加布施
    砂金三十両      五衣一領
   請僧口別
    錦の被物五重     綾十重         帖絹三十疋
    染絹三十端      綿五百両        糸千両
    白布三十端      紺布三十端       藍摺百端
    鞍馬三疋
  この外百僧供有り。また伊豆の国願成就院北隣は幽霊在世の御亭なり。而るに今北條
  殿の沙汰として仏閣を定められ、阿弥陀三尊並びに不動・地蔵等の形像を安置し奉ら
  しめ給うと。凡そ駿河・伊豆・相模・武蔵等の国中の仏寺、各々追善を修す。海道十
  五箇国の内然るべき輩に於いては、或いは堂舎、或いは修善を営むと。
 

1月15日 壬寅 晴
  佐々木左衛門の尉定綱(在京)椀飯を進す。今日、京都大番を勤仕すべきの由、諸御
  家人に仰せらる。左衛門の尉義盛これを奉行す。また去る五日の除書、今日参着す。
  羽林件の日従四位上に叙す。同八日禁色を聴し給うと。
 

1月18日 乙巳 深雪風烈し。
  中将家大庭野に出でしめ給う。稲村崎以南江浦の景気、長途興を催す。彼の野の押立
  に至りこれを蹈む。禽獣その員を知らず。この間波多野の次郎経朝(忠綱男)二狐を
  射る。数十騎轡を並ぶと雖も、独り両疋羽を飲むの号を顕わす。工藤の小次郎行光ま
  た一箭を以て二翼を射る。甚だ以て感に堪え、還御晩に及ぶ。今日の椀飯は、畠山の
  次郎重忠が所役なり。これを以て御駄餉に募り、金洗澤に構う。仍ってその所に於い
  て、昏黒に至るまで盃酒の儀有り。経朝・行光等を召し、各々御馬一疋・御劔一腰を
  賜う。射芸に感ぜしめ給うに依ってなり。


1月20日 丁未 晴
  辰の刻、原の宗三郎飛脚を進し申して云く、梶原平三景時この間当国一宮に於いて城
  郭を構え、防戦に備うの儀、人以て怪しみを成すの処、去る夜丑の刻、子息等を相伴
  い、潛かにこの所を逃れ出ず。これ謀叛を企て上洛の聞こえ有りと。仍って北條殿・
  兵庫の頭・大夫屬入道等御所に参り沙汰有り。これを追罰せんが為、三浦兵衛の尉・
  比企兵衛の尉・糟屋籐太兵衛の尉・工藤の小次郎已下の軍兵を遣わさるるなり。亥の
  刻、景時父子駿河の国清見関に到る。而るにその近隣の甲乙人等、的を射んが為に群
  集す。退散の期に及び、景時途中に相逢う。彼の輩これを怪しみ箭を射懸く。仍って
  芦原の小次郎・工藤八・三澤の小次郎・飯田の五郎これを追う。景時狐崎に返し合い
  相戦うの処、飯田の次郎等二人討ち取られをはんぬ。また吉香の小次郎・渋河の次郎
  ・船越の三郎・矢部の小次郎芦原に馳せ加わる。吉香梶原三郎兵衛の尉景茂(年三十
  四)に相逢い、互いに名謁らしめ攻戦し、共に以て討ち死にす。その後六郎景国・七
  郎景宗・八郎景則・九郎景連等轡を並べ鏃を調うの間、挑み戦い勝負決し難し。然れ
  ども漸く当国の御家人等競い集まり、遂に彼の兄弟四人を誅す。また景時並びに嫡子
  源太左衛門の尉景季(年三十九)・同弟平次左衛門の尉景高(年三十六)、後山に引
  き相戦う。而るに景時・景高・景則等、死骸を貽すと雖もその首を獲ずと。
 

1月21日 戊申
  巳の刻に山中に於いて景時並びに子息二人の首を捜し出す。凡そ伴類三十六人、頸を
  路頭に懸くと。
 

1月23日 庚戌
  三浦の介平の朝臣義澄(年七十四)卒す。三浦大介義明が男。
  酉の刻、駿河の国の住人並びに発遣の軍士等参着す。各々合戦の記録を献る。廣元朝
  臣御前に於いてこれを読む。その記に云く、
   正治二年正月二十日、駿河の国に於いて景時父子並びに同家子・郎等を追罰する事
  一、芦原の小次郎最前にこれを追い責め、梶原の六郎・同八郎を討ち取る。
  一、飯田の五郎が手に二人(景茂が郎等)を討ち取る。
  一、吉香の小次郎、三郎兵衛の尉景茂(手討ち)を討ち取る。
  一、渋河の次郎が手に梶原平三家子四人を討ち取る。
  一、矢部の平次が手に源太左衛門の尉・平次左衛門の尉・狩野兵衛の尉、已上三人を
    討ち取る。
  一、矢部の小次郎、平三を討ち取る。
  一、三澤の小次郎、平三が武者を討ち取る。
  一、船越の三郎、家子一人を討ち取る。
  一、大内の小次郎、郎等一人を討ち取る。
  一、工藤八が手に工藤六、梶原の九郎を討ち取る。
   [正月二十一日]
  人々云く、景時兼日、駿河の国の内吉香の小次郎は第一の勇士なり。密かにもし上洛
  せんと欲するの時、彼の男が家の前を過ぎるに於いては、怖畏有るべからざるの由発
  言すと。
 

1月24日 辛亥
  安達の源三親長使節として上洛す。景時を誅せらるの由申さるるに依ってなり。御教
  書に云く、平の景時用意の事有るの由その聞こえ有るに依って、誅罰を加え候いをは
  んぬ。伴類多く在京すと。仍って捜し求むべきの旨、惟義・廣綱等に下知し候所なり。
  てえれば、廣元朝臣これを書す。今日加藤次景廉所領を収公せらる。これ景時と朋友
  たるに依ってなり。
 

1月25日 壬子 細雨屡々灑ぐ。夜に入り属く。
  今日美作の国守護職已下景時父子の所領等を収公せらる。駿河の国住人等、今度合戦
  の忠節を竭すの輩、各々勲功の賞を蒙る。また比企兵衛・糟屋兵衛同じく賞を蒙る。
  未だ到らざる以前に景時誅せらるると雖も、追罰使の賞に依って此の如しと。晩に及
  んで、景時弟刑部の丞友景降人として北條殿の御亭に参る。工藤の小次郎行光に付け
  兵具を献ると。

[松平基則氏所蔵文書]
    (頼家花押)
  下す 播磨の国五箇庄住人
   補任地頭職事
    左衛門の尉藤原朝政
  右の人彼の職を為すべし。但し乃貢已下課役に於いては、抑妨を成さず、その勤めを
  致すべきの状件の如し。以下。
    正治二年正月二十五日

[周防吉川家文書]
    在御判
  下す 播磨の国福井庄住人
   補任地頭職事
    藤原経兼
  右の人彼の職を為すべし。但し庄務及び年貢・課役に於いては、濫妨を成さず、沙汰
  を致すべきの状件の如し。以下。
    正治二年正月二十五日
 

1月26日 癸丑
  糟屋籐太兵衛の尉有季、安房判官代隆重を生虜り進す。これ景時が朋友なり。日来一
  宮の城郭に加わり、即ち相具し駿河の国に至り、合戦の刻聊か疵を被る。その夜樹上
  に昇り、翌日軍士等分散するの後里辺に出ずるの処、有季が郎従等これを獲ると。
 

1月27日 甲寅 [玉葉]
  今日、晴光来りて云く、景時逐電しをはんぬ。昨日酉の刻関東より飛脚到来す。今旦
  御占い有りと。
 

1月28日 乙卯 晴陰
  夜に入り、伊澤の五郎信光甲斐の国より参上す。申して云く、武田兵衛の尉有義景時
  の約諾を請け、密かに上洛せんと欲するの由、その告げを聞くに依って、子細を尋ね
  んが為彼の館に発向するの処、遮って中言有るかの間、兼ねて以て逃げ去り行方を知
  らず。室屋に於いては敢えて人無し。ただ一封の書有り。披見するの処、景時が状な
  り。同意の條勿論と。凡そ景時二代の将軍家寵愛を誇り、傍若無人の威を振るう。多
  年の積悪、遂にその身に帰するの間、諸人向背を為すなり。仍って逆叛の思いを挿み、
  且つは奏聞を経んが為、且つは鎮西の士を語らんが為、上洛せんと擬すの刻、日来の
  芳契を恃み、源家の旧好を重んじ、彼の武衛を以て大将軍に立てんと為す。送る所の
  書札、自然旧宅に落し置くなりと。
 

1月29日 丙辰 天晴 [玉葉]
  或る人云く、梶原景時上洛を企て駿河の国高橋(鎌倉より京方へ五ヶ日の路なり)に
  於いて、上下向の武士、併せて土人等の為に伐ち取られをはんぬ。景晴・景茂自殺す。
  景季・景高等討伐せられをはんぬと。法勝寺領古橋庄内に於いてこの事有りと。但し
  実説を知らず。尋ね問うべし。

[明月記]
  梶原景時、頼家中将の勘当を蒙り逐電するの間、天下警衛すべきの由これを沙汰す。
  また院に申すと。これに依って世間頗る物騒すか。