1200年 (正治2年 庚申)
 
 

2月1日 丁巳 天晴 [玉葉]
  この日釈尊なり。旬祓遙拝例の如し。申の終わり、前の座主慈圓来られ、明日より上
  皇宮に於いて、如法北斗法を始行せらるべし。御請け有りと。
 

2月2日 戊午 陰、南風烈し、申の刻甚雨、雷鳴二声。
  今日御所侍に於いて、波多野の三郎盛通に仰せ、勝来の七郎則宗を生虜らる。景時が
  余党たるに依ってなり。これ多年羽林に昵近し奉るの侍なり。相撲の達者、筋力人に
  越ゆるの壮士なり。盛通則宗の後に進み出でこれを懐く。則宗右手を振り抜き、腰刀
  を抜き盛通を突かんと欲するの処、畠山の次郎重忠折節傍らに在り。座を動かずと雖
  も、左手を捧げ、則宗が刀を拳り腕に取り加えこれを放たず。その腕早く折りをはん
  ぬ。仍って魂憫然として輙く虜わるるなり。即ち則宗を義盛に給う。義盛御厩侍に於
  いて子細を問う。則宗申して云く、景時鎮西を管領すべきの由、宣旨を賜るべき事有
  り。早く京都に来会すべきの旨、九州の一族に触れ遣わすべしと。契約の趣等閑なら
  ざるの間、状を九国の輩に送りをはんぬ。但しその実を知らざるの由これを申す。義
  盛この趣を披露するの処、暫く預け置くべきの由仰せらるる所なり。

[玉葉]
  景時討伐必然と。天下の悦びなり。積悪の輩数を盡くし滅亡す。趙高独り運未だ消え
  ず。如何々々。御祈り等今日延引すと。

[明月記]
  人云く、景時すでに討たれをはんぬと。未だその旨を知らず。
 

2月5日 辛酉 陰
  和田左衛門の尉侍所別当に還補す。義盛治承四年関東の最初この職に補すの処、建久
  三年に至り、景時一日その号を仮るべきの由懇望するの間、義盛服暇の次いでを以て、
  白地にこれを補せらる。而るに景時奸謀を廻し、今にこの職に居るなり。景時元は所
  司たりと。

[平家物語(正治元年の記事と成っているが)]
  其後六代御前、文覺上人流罪せられたるよし伝聞ひて、高雄へ帰おはしたりけるを、
  安左衛門大夫資兼に仰て、二月五日、猪熊の文覺の宿所に押寄て、六代御前を召取て、
  関東へ下し奉る。駿河国の住人、岡部三郎大夫好康承て、千本松原にて斬てけり。是
  より平家の子孫は絶果て給ひける。
 

2月6日 壬戌 晴陰、雪飛び風烈し。
  今日、則宗が罪名並びに盛通が賞の事その沙汰有り。廣元朝臣・善信・宣衡・行光等
  これを奉行す。爰に眞壁の紀内と云う者有り。盛通に於いて阿党の思いを成す。則宗
  を生虜る事、更に盛通が高名に非ず。重忠虜るの由これを憤り申す。仍って石の御壺
  に於いて、重忠と眞壁とを召し決せらるるの処、重忠申して云く、その事を知らず。
  盛通一人の所為の由承り及ぶばかりなりと。その後重忠侍に帰り来たり、眞壁に対し
  て云く、此の如き讒言、尤も無益の事なり。弓箭に携わるの習いは、横心無きを以て
  本意と為す。然れども客意を勲功の賞に懸けんが為、阿党を盛通に成さば、直に則宗
  を生虜るの由これを申せらるべきか。何ぞ重忠を差し申さんや。且つは盛通譜第の勇
  士たり。敢えて重忠の力を借るべからず。すでに譜第の武名を申し黷すの條、不当至
  極なりと。内舎人頗る赭面し、詞を出すに及ばず。これを聞く者重忠に感嘆す。その
  後小山左衛門の尉・和田左衛門の尉・畠山の次郎已下侍所に群集し、雑談刻を移す。
  渋谷の次郎云く、景時近辺の橋を引き、暫く相支うべきの処、左右無く逐電し、途中
  に於いて誅戮に逢う。兼日の自称に違うと。重忠云く、縡楚忽に起こる。樋を鑿り橋
  を引くの計有るべからず、難治かと。安藤右馬大夫右宗(高雄の文覺を生虜る者なり)
  これを聞いて云く、畠山殿は、ただ大名ばかりなり。橋を引き城郭を構ゆる事、存知
  られざるか。近隣の小屋を橋上に壊し懸け、火を放ち焼き落とすこと、子細有るべか
  らずと。また小山左衛門の尉云く、弟五郎宗政は、年来当家の武勇、独り宗政に在る
  の由自讃す。而るに今度景時が威権を恐れ、判形を訴状に加えず。その名を墜すの條
  これを恥づべし。向後発言すること莫しと。宗政荒言悪口を為すの者と雖も、返答に
  能わずと。
 

2月7日 天陰、午後雨雪降る [明月記]
  三名の乳母来たり語る。梶原滅亡の事等、その余党等追捕するの間、京並びに辺土多
  く以て事有りと。
 

2月20日 丙子
  親長京都より帰参す。囚人播磨の国惣追捕使芝原の太郎長保を具し下る。これ景時が
  與党なり。佐々木左衛門の尉廣綱、郎従を相副えこれを送り進す。親長御所に参り、
  申して云く、去る二日入洛し、同七日、廣綱・基清相共に、先ず景時が五條坊門面の
  宅を追捕し、郎従を縛す。その白状に就いて、近江の国富山庄に於いて長保を生虜る
  と。長保に於いては、義盛が宅に遣わさるる所なり。
 

2月22日 戊寅 陰
  掃部の頭廣元朝臣並びに善信等申して云く、景時関東を逐電するの由、去る一日京都
  に披露す。而るに仙洞即ち五壇の御修法を始めらる。その故を知らずと。これ尤も怪
  しむべき事なり。景時逐電するの由誰人の申す所ぞや。兼ねて奏聞を経て、上洛せん
  と欲するの條異儀無きかと。晩に及び長保を推問す。長保申して云く、播州守護たる
  に依って、彼の吹挙に就いて奉公を致すと雖も、敢えて叛逆に與せずと。今日長保を
  小山左衛門の尉朝政に召し預けらるるなり。
 

2月26日 壬午 晴
  中将家鶴岡八幡宮に御参り。御除服の後初度なり。上宮に於いて御経を供養せらる。
  導師は弁法橋定豪と。
   御出の供奉人
  先陣の随兵十人
    結城の七郎朝光    三浦平六兵衛の尉義村   宇佐美左衛門の尉祐茂
    野次郎左衛門の尉成時 佐々木の小三郎盛季    加藤の弥太郎光政
    榛谷の四郎重朝    中山の五郎為重      江間の太郎頼時
    北條の五郎時連
  次いで御劔役
    後藤兵衛の尉基綱
  次いで御調度懸け
    糟屋籐太兵衛の尉有季
  次いで御甲着け
    大井の次郎實久
  次いで御冑持ち
    中野の五郎能成
  次いで御後衆二十人(束帯布衣相交じる)
    相模の守惟義     武蔵の守朝政       掃部の頭廣元
    前の右馬の助以廣   源右近大夫将監親廣    江左近将監能廣
    中右京の進季時    小山左衛門の尉朝政    後藤左衛門の尉基清
    八田左衛門の尉知重  島津左衛門の尉忠久    所右衛門の尉朝光
    和田左衛門の尉義盛  笠原十郎左衛門の尉親景  山内刑部の丞経俊
    大友左近将監能直   若狭兵衛の尉忠季     千葉平次兵衛の尉常秀
    天野右馬の允則宗   中條右馬の允家長
  次いで後陣の随兵
    村上余三判官仲清   小笠原の弥太郎長経    武田の五郎信光
    泉の次郎季綱     安達の九郎景盛      比企判官四郎家員
    土屋の次郎義清    土肥の先次郎惟光     葛西兵衛の尉清重
    江戸の次郎朝重
  次いで廷尉
    新判官能員
  次いで殿上人(宮寺に参会す)
    伯耆少将