1200年 (正治2年 庚申)
 
 

3月3日 戊午 甚雨終日。樹を抜くが如き大風相交じる。
  今日鶴岡法会なり。羽林御参り有らんと欲するの処、風雨に依って止めしめ給う。江
  間の四郎主奉幣の御使いたり。
 

3月14日 己巳 朝雨降る。日中晴天と雖も、余寒冬より甚だし。
  今日、岡崎の四郎義實入道鳩仗に懸かり、尼御台所の御亭に参る。八旬の衰老、病と
  愁いとの計会に迫り、余命旦暮に在り。しかのみならず事に於いて貧乏し、生涯憑む
  所無し。幾ばくならずの恩地は、義忠冠者が夢後を訪わんが為、仏寺に施入するの志
  有り。残る所僅かに錐を立つ。これ更に子孫安堵の計に覃ぼし難きの由泣いて愁い申
  す。亭主殊に憐愍せしめ給う。石橋合戦の比、専ら大功を致す者なり。老後と雖も尤
  も賞翫せられ、早く一所を充て賜り給うべきの由羽林に申せらると。行光御使いたり。
 

3月27日 通夜今朝雨降る。午後休止す。[明月記]
  人云く、女院(その所を知らず)の蔵人人妻を犯すの間、本夫劔を抜き斬殺す。六條
  万里小路辺と。その子細を聞き披かず。
 

3月28日 天陰 [明月記]
  今夜聞く。昨日殺害せらるる物、この少輔入道の子若狭の前司(保季)と。この由忽
  ち風聞の事、更に左右に及ばず。この男の首服予本より甘心せざる事なり。惣てその
  性落去せざるの由聞く所なり。始終此の如し。言語同断、白昼武士の妻を犯すと。
 

3月29日 甲申
  勝長寿院前の別当恵眼房阿闍梨入滅す。

[明月記]
  今日聞く。若狭の前司保季が事必然なり。件の本夫(犯人)、定綱が子(左衛門の尉)
  の許に行き向かう。これ親能入道が郎等と。而るに件の入道従者(某入道)家礼の由
  を称しこれを請け取る。検非違使の手に渡さんと欲す。今日逸物の馬を馳せ逐電す。
  人追い得ずと。事尤も嗚呼か。保季が不奇左右に及ばずと雖も、諸院殿上以上の物白
  昼殺害す。また世間の重事か。言語道断のものなり。六條南・万里小路西、九條面平
  門の内にこれを斬り伏す。門前市を成し、観る物堵の如くと。着す所僅かに小袖ばか
  り、頸辺を覆いその身を顕わすと。本夫先ず太刀を以て数刀これを切る。従者また寄
  せ打ち殺すと。武士に於いてまた高名ならず。甚だ異様の事なり。日来見ず知らずと
  雖も、大宮大納言公卿勅使の時、供奉の為先年予の家中に入り来る。その時見る所な
  り。容顔美麗、潘安仁に異ならず。