1200年 (正治2年 庚申)
 
 

10月10日 癸巳 晴
  貢金五百両・馬二十疋を京都に奉らる。今日進発す。佐々木の五郎義清御使いとして
  これに相副う。
 

10月13日 丙申
  今日宮城の四郎奥州より帰参す。去る月十六日合戦を遂げ、晩に及び芝田の館を攻め
  落としをはんぬ。爰に感ぜらるべき事有り。工藤の小次郎行光が郎従籐五・籐三郎兄
  弟、奥州の所領より鎌倉に参向するの処、白河関の辺に於いて、御使い芝田を追討せ
  らるべきの由を聞き、その所より馳せ帰る。合戦の日、彼の館の後面に廻り箭を射る
  ことその員を知らず。これに中たる死者十余人。賊主退散、偏に件の両人の忠節に在
  るの由これを申す。
 

10月21日 甲辰 霽
  羽林濱の御所に入御す。遠州盃酒を献ず。義盛・朝政・義村以下御家人多く以てその
  座に候ず。工藤の小次郎行光陪膳に候ず。この間羽林仰せられて云く、行光が郎従等、
  去る比奥州に於いて弓馬の隠徳を顕わす。これに就いてその号を尋ねるに、兼ねて勇
  敢の聞こえ有りと。未だその面を覧ず。早く召し進すべしと。仍って行光座を起ち、
  若宮大路の宅に帰り、籐五郎・籐三郎・美源次已上三人の郎等を召し、衣装を餝り騎
  を刷い相具し参るの間、この事路次市を成し、観る者堵の如し。漸く幕府の門に入り
  庭上に跪く。各々紺直垂を着し、相並び敷皮に候ず。羽林御簾を巻き上げこれを覧玉
  う。彼等皆勇士の相を備う。一人御家人に召し加えらるべきの由仰せらる。行光申し
  て云く、平家を追罰せられてより以降、亡父景光戦場に赴き、万死に入り一生に出ず
  ること十箇度、その間多く以て彼等が為に救命せらるるなり。行光また家業を継ぐな
  り。而るに御讎敵を退治せらるるの日、上に於いては、我が朝の勇士悉く以て御家人
  たり。行光は僅かに恃む所この三輩なりと。羽林仰せられて云く、行光が申す所、そ
  の理すでに至極、弓馬に達するのみならず、言語また詳かなり。早く三盃を傾くべし。
  てえれば、即ち直に御盃を下さる。北條の五郎銚子を取りこれを勧め賜わらる。彼の
  郎等を具し退出す。夜に入り羽林還御す。
 

10月26日 己酉 晴
  鶴岡八幡宮別当法眼圓暁(宮の法眼と号す)入滅す。

[明月記]
  今日京官除目と。
 

10月27日 陰 [明月記]
  (前略)左衛門督源頼家。少尉中原實久、藤原行村、源親長。
  叙位、従三位藤良輔、同兼基、源頼家。正四位下藤定家、正五位下源守通。従五位下
  源親廣(右近将監元の如し)。