1200年 (正治2年 庚申)
 
 

11月1日 癸巳 晴
  相模権の守並びに佐々木左衛門の尉定綱等が飛脚京都より参着す。去る月二十二日、
  頭の弁公定朝臣を奉行と為し、近江の国の住人柏原の彌三郎を追討すべきの由宣下せ
  らる。これ近年事に於いて帝命を背くが故なりと。
 

11月3日 乙卯 霽
  鶴岡臨時祭御神楽を行わる。尼御台所並びに羽林御参宮。
 

11月4日 丙辰 陰、小雨常に降る。
  今日、渋谷の次郎高重・土肥の先次郎惟光使節として上洛す。これ柏原の彌三郎を追
  討せんが為なり。各々先ず相模の国の所領に到り、彼の国所々より進発すべしと。
 

11月7日 己未 晴
  京都の使者到着す。去る月二十六日の除書を持参す。中将家左衛門の督に任じ、従三
  位に叙し給う。また挙し申さるる所の安達源三郎親長・山城の次郎行村等、少尉に任
  ずと。
 

11月26日 天晴 [明月記]
  頭の弁参り宣旨を奉る。柏原の彌三郎といふ物年来聞く所なり。追討すべき物の由に
  依って宣旨すと。見参の後、頭退出の次いでに、聊か相逢い明後日参内すべきの由相
  語る。この事昨日頭の中将書状を以てまた触る所なり。相定め有るべき由両頭結構す
  と。宣旨今夜下され宣すべき由申すべきの由相触れ退出す。仍ってその由宮女房を以
  て申し達しをはんぬ。今夜御書を以て公定弁の許に遣わすと。