1200年 (正治2年 庚申)
 
 

12月3日 乙酉 陰
  大輔房源性(源進士左衛門の尉整子)と云う者有り。無双の算術者なり。しかのみな
  らず田頭里坪を見て、眼精の覃ぶ所に於いては段歩を違えずと。また高野大師の跡を
  伺い、五筆の芸を顕わす。而るに陸奥の国伊達郡の境相論有り。その実検として去る
  八月に下向す。夜前帰着し今日御所に参る。これ右筆並びに蹴鞠の両芸を賞せられ、
  日来昵近し奉る所なり。仍って左右無く御前に召され、奥州の事等を尋ね仰せらる。
  源性申して云く、今度下向の次いでを以て、松嶋を斗り数う。この所に於いて独りの
  住僧有り。その庵に一宿するの間、法門の奥旨を談る。翌朝僧云く、吾は天下第一の
  算師たるなり。形算を陰すと雖も、寧ろ龍猛菩薩の術に劣らんやと。源性云く、而る
  に更に源性に勝るべからざるの由詞を吐くの処、彼の僧云く、当座を改めず、速やか
  に勝利を見せしむべしと。源性これを承諾す。仍って算を取り源性が座の廻りに置く。
  時に霞霧掩うが如く四方太だ暗く、方丈の内忽ち大海に変じ、着する所の圓座磐石と
  為す。松風頻りに吹き、波浪の声急にして、心惘然存亡弁え難きなり。刻を移すの後、
  亭主僧の声を以て云く、自讃すでに後悔有るやと。源性後悔の由を答う。彼の僧重ね
  て云く、然らば永く算術の慢心を停止すべし。源性答う。早く停止すべし。その後蒙
  霧漸く散じ、白日すでに明らかなり。欽仰の余り、伝受の望みを成すと雖も、末世の
  機根に於いて授け難きの由を称し、これを免さずと。仰せに云く、その僧を伴い参ら
  ざること、甚だ越度なりと。
 

12月27日 己酉 晴
  先日上洛の渋谷の次郎高重・土肥の先次郎惟光等帰着す。申して云く、高重等上洛の
  以前に、官軍彼の柏原の彌三郎が住所近江の国柏原庄に発向するの刻、三尾谷の十郎
  件の居所後面の山を襲うの間、賊徒逐電しをはんぬ。今両使その行方を伺うと雖も、
  拠所無きに依って帰参すと。
 

12月28日 庚戌
  金吾政所に仰せ、諸国の田文等を召し出され、源性をしてこれを算勘せしむ。治承・
  養和以後の新恩の地、人毎に五百町に過ぎるに於いては、その余剰を召し放ち、無足
  の近仕等に賜うべきの由、日来内々御沙汰に及ぶ。昨日施行せしむべきの旨、廣元朝
  臣に仰せ下さる。すでに珍事なり。人の愁い世の謗り、何事かこれに如かずやの趣、
  彼の朝臣以下宿老殊に周章す。今日善信が如き頻りに諷詞を盡すの間、なまじいに以
  てこれを閣かる。明春御沙汰有るべしと。