1201年 (正治3年、2月13日改元 建仁元年 辛酉)
 
 

12月2日 戊寅 晴
  文章生宣衡使節として上洛す。これ左衛門の督の辞状を上げらるるなり。これに依っ
  て御位署略すべきの旨、政所に仰せらると。
 

12月3日 己卯
  中務入道経蓮御所に参り、近日帰洛すべきの由を申す。能員申次たり。東の小御所に
  参り、子息高重を相具す。左金吾対面し給う。収公せらるる所の所領の内、先ず一所
  を返し給うべきの由、経蓮に仰せ下さる。その次いでを以て條々述懐に刻を移す。或
  いは往事の忘れ難きを申し、或いは奉公の他に異なるを述べ、独り涙を拭い退出す。
  左衛門の尉義盛以下、親しく往事を視聴するの老人等、これを聞き多く落涙す。また
  江間の太郎殿内々家君に申されて云く、経蓮収公せらるる所の地、勲功の賞に非ずと
  云うこと莫し。罪科を宥めらるる上は、悉くこれを返し付けらるべきか。彼は譜代の
  勇士たり。その恨みを貽さば、公私に於いて定めて阿党の思いを挿むべし。盍ぞ慎し
  み思し食されんやと。
 

12月18日 甲午
  御所の御鞠。人数前に同じ。数三百二十なり。
 

12月28日 甲辰
  善進士京都より帰参す。申して云く、十五日御辞表を捧ぐ。勅許無く返し下さると。
 

12月29日 乙巳 冴陰
  今日、景時余党勝木の七郎則宗囚人の号を除かれ、鎮西に返し下さる。