12月2日 戊寅 晴
文章生宣衡使節として上洛す。これ左衛門の督の辞状を上げらるるなり。これに依っ
て御位署略すべきの旨、政所に仰せらると。
12月3日 己卯
中務入道経蓮御所に参り、近日帰洛すべきの由を申す。能員申次たり。東の小御所に
参り、子息高重を相具す。左金吾対面し給う。収公せらるる所の所領の内、先ず一所
を返し給うべきの由、経蓮に仰せ下さる。その次いでを以て條々述懐に刻を移す。或
いは往事の忘れ難きを申し、或いは奉公の他に異なるを述べ、独り涙を拭い退出す。
左衛門の尉義盛以下、親しく往事を視聴するの老人等、これを聞き多く落涙す。また
江間の太郎殿内々家君に申されて云く、経蓮収公せらるる所の地、勲功の賞に非ずと
云うこと莫し。罪科を宥めらるる上は、悉くこれを返し付けらるべきか。彼は譜代の
勇士たり。その恨みを貽さば、公私に於いて定めて阿党の思いを挿むべし。盍ぞ慎し
み思し食されんやと。
12月18日 甲午
御所の御鞠。人数前に同じ。数三百二十なり。
12月28日 甲辰
善進士京都より帰参す。申して云く、十五日御辞表を捧ぐ。勅許無く返し下さると。
12月29日 乙巳 冴陰
今日、景時余党勝木の七郎則宗囚人の号を除かれ、鎮西に返し下さる。