1202年 (建仁2年 壬戌)
 
 

1月3日 己酉
  御弓場始めなり。射手各々矢員の多少に就いて御引出物を賜う。
   射手
  一番 和田の平太胤長        市河の五郎
  二番 海野の小太郎幸氏       中野の四郎
  三番 榛谷の四郎重朝        糟屋の太郎
 

1月9日 乙卯 天顔快晴。
  左金吾鶴岡八幡宮に御参り。天野左馬の允御劔を役す。宮寺に於いて御経供養有り。
  導師は日光の別当真智房法橋隆宣(当宮供僧一和尚)。
 

1月10日 丙辰
  御鞠始めなり。左金吾(御布衣)立たしめ給う。北條の五郎時連・紀内行景・富部の
  五郎・比企の彌四郎・肥多の八郎宗直(已上布衣)・源性・義印等候ず。数百二十・
  三百十なり。
 

1月12日 戊午
  また御鞠有り。人数前に同じ。而るに隼人の佑康清入道宅、去年始めて懸樹を殖ゆ。
  太だその興有り。御覧られざるは頗る無念の由申さしむ。仍ってこの人数を率い、則
  ち彼の庭に渡御す。員五百。
 

1月14日 庚申
  入道従五位下行大炊の助源朝臣義重(法名上西)卒しをはんぬ(陸奥の守義家朝臣の
  孫、式部大夫義国一男、母は上野の介敦基女)。
 

1月28日 甲戌
  卯の刻大地震。辰の一点に朝日両輪を見る。
 

1月29日 乙亥
  掃部入道亀谷の宅に於いて御鞠有るべきの由、兼ねて定めらるるの間、殊に結構せら
  る。金吾出御有らんと欲するの処、尼御台所行光を以て申されて云く、故仁田入道上
  西は、源氏の遺老、武家の要須なり。而るに去る十四日卒去す。未だ二十日に及ばず。
  御興遊定めて人の謗りを貽すか。然るべからずと。金吾蹴鞠に於いては機嫌を論ぜざ
  るの由申さしめ給うと雖も、終に以て抑留せしめ給うと。