1202年 (建仁2年 壬戌)
 
 

2月2日 丁丑
  京都の使者到着す。去る月二十三日、左金吾正三位に叙せしめ給うと。
 

2月20日 乙未
  相模の国積良の辺に古柳有り。名木の由聞かしめ給うに就いて、鞠の御壺に移植せん
  が為、彼の所に渡御す。北條の五郎以下六十余輩御共に候ず。また行景を召し具せら
  る。
 

2月21日 丙申
  左金吾鎌倉に還御す。件の柳これを引かる。即ち石の御壺内に植えらる。行景これを
  奉行す。但し良木に非ざるの由これを申すと。
 

2月27日 壬寅
  鶴岡の別当阿闍梨鞠足等を招請し饗応す。これ左金吾内々の仰せに依って此の如し。
  行景を賞翫せらるるの余りなり。晩に及び鞠を見るべきの由坊主所望するの間、各々
  進み懸下に立つ。数三百の後退散す。
 

2月29日 甲辰
  故大僕卿(義朝)沼濱の御旧宅を鎌倉に壊し渡し、栄西律師の亀谷寺に寄付せらる。
  行光これを奉行す。この事、当寺建立の最初その沙汰有りと雖も、僕卿彼の御記念と
  して、幕下将軍殊にその破壊を修復せらる。暫く顛倒の儀有るべからざるの由定めら
  るるの処、僕卿尼御台所の御夢中に入り示されて云く、吾常に沼濱亭に在り。而るに
  海辺漁を極む。これを壊し寺中に建立せしめ、六楽を得んと欲すと。御夢覚めるの後、
  善信をしてこれを記さしめ給い、栄西に遣わさると。大官令云く、六楽は六根楽かと。