1202年 (建仁2年 壬戌)
 
 

3月8日 癸丑
  御所の御鞠、人数例の如し。この御会連日の儀なり。その後比企判官能員の宅に入御
  す。庭樹花盛りの間、兼ねて案内を啓すの故なり。爰に京都より下向の舞女(微妙と
  号す)有り。盃酌の際これを召し出され、歌舞曲を盡くす。金吾頻りにこれを感じ給
  う。廷尉申して云く、この舞女愁訴の旨有るに依って山河を凌ぎ参向す。早く直に尋
  ね聞こし食さるべし。てえれば、金吾その旨を尋ねしめ給うの処、彼の女落涙数行し、
  左右無く詞を出さず。恩問度々に及ぶの間、申して云く、去る建久年中、父右兵衛の
  尉為成、人の讒に依って官人の為に禁獄せらる。而るに西獄囚人等を以て、奥州の夷
  に給わらんが為これを放ち遣わさる。将軍家雑色請け取り下向しをはんぬ。為成その
  中に在り。母愁歎に堪えず卒去す。その時我七歳なり。兄弟・親昵無く、多年孤独の
  恨みに沈む。漸く長大するの今、恋慕切なるが故、彼の存亡を知らんが為、始めて当
  道に慣れ東路に赴くと。これを聞く輩悉く悲涙を催す。速やかに御使いを奥州に遣わ
  し尋ね仰せらるべきの由、その沙汰有り。盃酒終夜に及び、鶏鳴以後還らしめ給う。
 

3月14日 己未
  御鞠有り。人数前に同じ。員三百六十・二百五十。今日永福寺内多宝塔の供養なり。
  尼御台所並びに金吾御結縁の為御参り。導師は栄西律師。これ金吾乳母、入道武蔵の
  守源の義信朝臣亡妻の追福なり。導師施物等、尼御台所よりこれを調え遣わさる。所
  右衛門の尉朝光奉行たり。
 

3月15日 庚申
  今日御鞠終日に及ぶ。員百二十・三百二十・百二十・百二十・二百四十・二百五十な
  り。その後尼御台所左金吾の御所に入御す。舞女(微妙)を召し、その芸を覧玉う。
  これ父を恋うるの志を感ぜしめ給うに依ってなり。芸能頗る抜群の間、彼の父の存亡
  を尋ねんが為、使者を奥州に遣わさると。飛脚帰参の程は尼御台所の御亭に候ずべき
  の由仰せらる。仍って還御の時御共たり。