1203年 (建仁3年 癸亥)
 
 

6月1日 丁酉 晴
  将軍家伊豆奥の狩倉に着御す。而るに伊東崎と号すの山中に大洞有り。その源の遠さ
  を知らず。将軍これを怪しみ、巳の刻、和田の平太胤長を遣わし見せらるの処、胤長
  火を挙げ彼の穴に入り、酉の刻に帰参す。申して云く、この穴行程数十里、暗くして
  日光を見ず。一大蛇有り。胤長を呑んと擬すの間、劔を抜き斬殺しをはんぬと。
 

6月3日 己亥 晴
  将軍家駿河の国富士の狩倉に渡御す。彼の山麓にまた大谷(人穴と号す)有り。その
  所を見究めせしめんが為、新田の四郎忠常主従六人を入れらる。忠常御劔(重宝)を
  賜い人穴に入る。今日幕下に帰出せざりをはんぬ。
 

6月4日 庚子 陰
  巳の刻、新田の四郎忠常人穴を出て帰参す。往還一日一夜を経るなり。この洞狭くし
  て踵を廻すこと能わず。意ならず進行す。また暗くして心神を痛めしむ。主従各々松
  明を取る。路次の始中終水流に足を浸し、蝙蝠顔に遮り飛ぶこと、幾千萬を知らず。
  その先途大河なり。逆浪漲り流れ、渡らんと欲するに拠無し。ただ迷惑の外他に無し。
  爰に火光を当て河向の奇特を見るの間、郎従四人忽ち死亡す。而るに忠常彼の霊の訓
  えに依って、恩賜の御劔を件の河に投げ入れ、命を全うし帰参すと。古老云く、これ
  浅間大菩薩の御在所、往昔以降敢えてその所を見ることを得ずと。今の次第尤も恐る
  るべきかと。
 

6月10日 丙午 晴
  将軍家駿河の国より鎌倉に還御す。
 

6月23日 己未
  八田知家仰せを奉り、下野の国に於いて阿野法橋全成を誅す。
 

6月24日 庚申
  江兵衛の尉能範使節として上洛す。これ頼全(全成子)誅すべきの由、相模権の守・
  佐々木左衛門等に仰せらるるが故なり。
 

6月30日 丙寅
  辰の刻、鶴岡若宮寶殿の棟上に唐鳩一羽居す。頃之地に頓落し死にをはんぬ。人これ
  を奇とす。