1203年 (建仁3年 癸亥)
 
 

8月4日 己亥
  平六兵衛の尉義村土佐の国守護職に補すと。

[明月記]
  朔日より山上騒動す。学生悪徒城を構う。

[香宗我部家伝證文]
  土左中太明道申す二ヶ條の事、申状具に以て見給いをはんぬ。
  一 当国深淵・香宗我部両郷地頭職の事、前司の時廰宣給いをはんぬ。然れば新司何
   ぞ違乱有るべく候哉。
  一 須留田別府莵田保は、香宗我部郷最中たるの由、在廰勘状に一見を加え候いをは
   んぬ。然れば、且つは故殿御下文を守り、且つは在廰勘状に任せ、明道知行せしむ
   べし。有限に至るの所、仰せ含めしめ給うべきの状件の如し。
    八月四日            遠江の守(花押影)
  平六兵衛の尉殿
 

8月7日 壬寅
  将軍家御不例太だ辛苦すと。

[明月記]
  殿下の召しに依って参上す。即ち参院せしめ給う。山の衆徒騒動すと。夜前酉の刻以
  後すでに合戦を遂げ、堂衆不利にて退くと。
 

8月15日 庚戌 晴
  鶴岡放生会例の如し。将軍家御不例に依って御出で無し。大膳大夫廣元朝臣奉幣の御
  使いたり。
 

8月16日 辛亥 晴
  大膳大夫鶴岡の下廻廊に着き神事を執行す。流鏑馬以下例の如し。
 

8月25日 天晴 [明月記]
  左衛門の督頼家卿重病、前後不覚の聞こえと。


8月27日 壬戌
  将軍家御不例縡危急の間、御譲補の沙汰有り。関西三十八箇国の地頭職を以て舎弟千
  幡君(十一歳)に譲り奉らる。関東二十八箇国の地頭並びに惣守護職を以て御長子一
  幡君(六歳)に宛らる。爰に家督の御外祖比企判官能員、潛かに舎弟に譲補する事を
  憤り怨み、外戚の権威に募り、独歩の志を挿むの間、叛逆を企て、千幡君並びに彼の
  外家已下を謀り奉らんと擬すと。
 

8月29日 甲子
  将軍家御不例日を追って増気す。仍って鶴岡宝前に於いて八萬四千基の泥塔を供養せ
  らる。導師は安楽房重慶(供僧一和尚)。請僧二十五口。御布施は帖絹百疋・白布二
  百端・藍摺三百端・色皮二十枚・八木八十果等なり。廣元朝臣・善信・行光等これを
  奉行す。