9月1日 丙寅
将軍家御病悩の事、祈療共にその験無きが如し。これに依って鎌倉中太だ物騒す。国
々の御家人等競い参る。人々相謂う所は、叔姪戚等不知の儀忽ち出来すか。関東の安
否、蓋し斯時なりと。
9月2日 丁卯
今朝、廷尉能員息女(将軍家の愛妾、若公母儀なり。元若狭の局と号す)を以て北條
殿を訴え申す。偏に追討すべき由なり。凡そ家督の外、地頭職を相分けらるるに於い
ては、威権二つに分れ、挑み争うの條これ疑うべからず。子たり弟たれば、静謐の御
計らいに似たりと雖も、還って招く所は乱国の基なり。遠州一族存えられば、家督の
世を奪わるるの事、また以て異儀無しと。将軍驚いて能員を病床に招き、追討の儀を
談合せしめ給う。且つは許諾に及ぶ。而るに尼御台所障子を隔て、潛かにこの密事を
伺い聞かしめ給う。告げ申されんが為、女房を以て遠州を尋ね奉らる。佛事を修せん
が為、すでに名越に帰り給うの由申せしむるの間、委細の趣に非ずと雖も、聊かこの
子細を御書に載せ、美女に付けこれを進せらる。彼の女路次に奔り付き奉り、御書を
捧ぐ。遠州下馬しこれを拝見す。頗る落涙し、更に乗馬の後、駕を止め暫く思案等の
気有り。遂に轡を廻し大膳大夫廣元朝臣が亭に渡御す。亭主相逢い奉るなり。遠州仰
せ合せられて云く、近年能員威を振るい諸人を蔑如するの條、世の知る所なり。剰え
将軍病疾の今、憫然の期を窺い、掠めて将命と称し逆謀を企てんと欲するの由、慥に
告げを聞く。この上は先ずこれを征すべきか如何に。てえれば、大官令答え申して云
く、幕下将軍の御時以降、政道を扶けるの号有り。兵法に於いては是非を弁えず。誅
戮の実否は宜しく賢慮に有るべしと。遠州この詞を聞き、即ち起座し給う。天野民部
入道蓮景・新田の四郎忠常等御共たり。莅柄社前に於いてまた御駕を扣え、件の両人
に仰せられて云く、能員謀叛を企てるに依って、今日追伐すべし。各々討手たるべし。
てえれば、蓮景云く、軍兵を発するに能わず。御前に召し寄せこれを誅せらるべし。
彼の老翁何事か有らんや。てえれば、御亭に還らしめ給うの後、この事猶議有り。重
ねて談ぜんが為大官令を招かる。大官令思慮の気有りと雖も、なまじいに以て参向せ
んと欲す。家人等多く以て進み従うの処、存念有りと称し悉くこれを留む。ただ飯富
の源太宗長ばかりを相具す。路次の間、大官令密かに宗長に語って云く、世上の躰た
らく尤も怖畏すべきか。重事に於いては、今朝細碎の評議を擬せられをはんぬ。而る
にまた恩喚の條、太だその意を得難し。もし不慮の事有らば、汝先ず予を害すべきて
えり。爾後名越殿に至る。遠州御対面良久し。この間宗長大官令の後に在って座を去
らずと。午の刻に大官令退出す。
遠州この御亭に於いて薬師如来像(日来これを造り奉る)を供養せしめ給う。葉上律
師導師たり。尼御台所御結縁の為入御有るべしと。遠州工藤の五郎を以て使いとし、
能員が許に仰せ遣わされて云く、宿願に依って佛像供養の儀有り。御来臨聴聞せらる
べきか。且つはまた次いでを以て雑事を談るべしてえり。早く予参すべきの由を申す。
御使い退去の後、廷尉子息・親類等諫めて云く、日来計儀の事無きに非ず。もし風聞
の聞こえ有るに依って、専使に預かるか。左右無く参向せらるべからず。縦え参らる
べしと雖も、家子郎従等をして甲冑を着し弓矢を帯び相従えらるべしと。能員云く、
然る如きの行粧、敢えて警固の備えに非ず。謬って人の疑いを成すべきの因なり。当
時能員猶甲冑の兵士を召し具せば、鎌倉中の諸人皆騒を処すべし。その事然るべから
ず。且つは佛事結縁の為、且つは御譲補等の事に就いて、仰せ合さるべき事有るや。
急ぎ参るべしてえり。遠州甲冑を着け給う。中野の四郎・市河の別当五郎を召し、弓
箭を帯し両方の小門に儲くべきの旨下知し給う。仍って征箭一腰を二つに取り分け、
各々これを手夾み件の両門に立つ。彼等は勝れた射手たるに依って、この仰せに応ず
と。蓮景・忠常は腹巻を着し、西南脇戸の内に構う。小時廷尉参入す。平礼の白き水
干・葛袴を着し黒馬に駕す。郎等二人・雑色五人共に有り。惣門に入り廊の沓脱を昇
り、妻戸を通り、北面に参らんと擬す。時に蓮景・忠常等造合脇戸の砌に立ち向かい、
廷尉の左右の手を取り、山本竹中に引き伏せ、誅戮に踵を廻さず。遠州出居を出でこ
れを見給うと。
廷尉の僮僕宿廬に奔帰し、事の由を告ぐ。仍って彼の一族・郎従等、一幡君の御館(小
御所と号す)に引き籠もり謀叛するの間、未の三刻、尼御台所の仰せに依って、件の
輩を追討せんが為軍兵を差し遣わさる。所謂江間の四郎殿・同太郎主・武蔵の守朝政
・小山左衛門の尉朝政・同五郎宗政・同七郎朝光・畠山の次郎重忠・榛谷の四郎重朝
・三浦平六兵衛の尉義村・和田左衛門の尉義盛・同兵衛の尉常盛・同小四郎景長・土
肥の先次郎惟光・後藤左衛門の尉信康・所右衛門の尉朝光・尾籐次知景・工藤の小次
郎行光・金窪の太郎行親・加藤次郎景廉・同太郎景朝・新田の四郎忠常已下雲霞の如
し。各々彼の所に襲い到る。比企の三郎・同四郎・同五郎・河原田の次郎(能員猶子)
・笠原十郎左衛門の尉親景・中山の五郎為重・糟屋籐太兵衛の尉有季(已上三人能員
聟)等防戦す。敢えて死を愁えざるの間、挑戦申の刻に及ぶ。景廉・知景・景長等並
びに郎従数輩疵を被り、頗る引退す。重忠壮力の郎従を入れ替えこれを責め攻む。親
景等彼の武威に敵せず、館に放火し、各々若君の御前に於いて自殺す。若君同じくこ
の殃に免れ給わず。廷尉嫡男余一兵衛の尉姿を女人に仮て、戦場を遁れ出ると雖も、
路次に於いて景廉が為に梟首せらる。その後遠州大岡判官時親を遣わし、死骸等を実
検せらると。夜に入り渋河刑部の丞を誅せらる。能員が舅たるに依ってなり。
[愚管抄]
能員をよびとりて、やがて遠景入道にいだかせて、日田の四郎にさしころさせて、や
がて武士をやりて頼家がやみふしたるを、大江廣元がもとにて病せて、それにすえて
けり。さて本体の家にならいて、子の一万御前はある人やりうたんとしければ、母い
だきて小門より出逃にけり。されどそれに籠りたる程の郎等のはじあるは出ざりけれ
ば、皆うち殺てけり。その中にかすや有末をば由なし。出せよ出せよと敵もうしみて
云けるを、ついに出ずして敵八人とりて打死しけるをぞ。人はなのめならずをしみけ
る。その外笠原の十郎左衛門親景、渋河の刑部兼忠など云者みなうたれぬ。ひきが子
共、むこの兒玉党など。ありあいたる者は皆うたれにけり。
9月3日 戊辰
能員が余党等を捜し求めらる。或いは流刑或いは死罪。多く以て糺断せらる。妻妾並
びに二歳の男子等は、好有るに依って和田左衛門の尉義盛に召し預け、安房の国に配
す。今日小御所跡に於いて、大輔房源性(鞠足)、故一幡君の遺骨を拾い奉らんと欲
するの処、焼ける所の死骸若干相交りて求める所無し。而るに御乳母云く、最後に染
付けの小袖を着せしめ給う。その文菊枝なりと。或る死骸の右脇下の小袖僅かに一寸
余り焦げ残り、菊文詳かなり。仍ってこれを以てこれを知り、拾い奉りをはんぬ。源
性頸に懸け高野山に進発す。奥院に納め奉るべしと。
9月4日 己巳
小笠原の彌太郎・中野の五郎・細野兵衛の尉等を召し禁めらる。この輩外祖の威を恃
み、日来能員に與し骨肉の昵みを成す。去る二日合戦の際、廷尉の子息等に相伴うが
故なり。島津左衛門の尉忠久、大隅・薩摩・日向等の国の守護職を収公せらる。これ
また能員が縁坐に依ってなり。加賀房義印手を束ねて遠州の侍所に参ると。
[出羽市河文書]
信濃の国の住人中野の五郎、本所を安堵せしむべきの状件の如し。
建仁三年九月四日 遠江の守(時政花押)
9月5日 庚午
将軍家御病痾少減す。なまじいに以て壽算を保ち給う。而るに若君並びに能員滅亡の
事を聞かしめ給い、その欝陶に堪えず。遠州を誅すべき由、密々に和田左衛門の尉義
盛及び新田の四郎忠常等に仰せらる。堀の籐次親家御使いたり。御書を持ち向かうと
雖も、義盛思慮を深め、彼の御書を以て遠州に献ず。仍って親家を虜え、工藤の小次
郎行光をしてこれを誅せしむ。将軍家いよいよ御心労と。
[愚管抄]
日田の四郎と云者は、頼家がことなる近習の者なり。頼家まだかかるべしともしらで、
能員をもさしころしけるに、このように成にけるに、本体の頼家が家の侍の西東なる
に、義時と二人ありけるがよきたたかいしてうたれにけり。
9月6日 辛未
晩に及び、遠州新田の四郎忠常を名越の御亭に召す。これ能員追討の賞を行われんが
為なり。而るに忠常御亭に参入するの後、昏黒に臨むと雖も、更に退出せず。舎人男
この事を怪しむに於いて、彼の乗馬を引き帰宅す。事の由を弟五郎・六郎等に告ぐ。
而るに遠州を追討し奉るべきの由、将軍家忠常に仰せ合せらるる事、漏脱せしむの間、
すでに罪科せらるるかの由、彼の輩推量を加う。忽ちその憤りを果たさんが為、江間
殿に参らんと欲す。江間殿折節大御所(幕下将軍御遺跡、当時尼御台所御座)に候ぜ
らる。仍って五郎已下の輩奔参し矢を発つ。江間殿御家人等をして防禦せしめ給う。
五郎は、波多野の次郎忠綱が為に梟首せらる。六郎は台所に於いて放火自殺す。件の
煙を見て、御家人等競い集う。また忠常名越を出て私宅に還るの刻、途中に於いてこ
れを聞く。則ち命を棄つべしと称し、御所に参るの処、加藤次景廉が為に誅せられを
はんぬ。
[北條九代記]
一萬並びに宋朝を誅せんと欲するの間、小御所に於いて合戦しをはんぬ。
9月7日 壬申 霽
亥の刻に将軍家落餝せしめ給う。御病悩の上、家門を治め給う事、始終尤も危きが故、
尼御台所計らい仰せらるるに依って、意ならず此の如し。
[明月記]
閭巷馳走す。左衛門の督頼家卿薨ず。遺跡の郎従権を争う。その子(六歳、或いは四
歳)外祖遠江の国司時政(金吾外祖)の為に討たる。その所従等京の家々に於いて追
捕磨滅すと。金吾弟童家を継ぐべき由宣旨を申すと。
[愚管抄]
かくて京へかくりきのぼせて、千万御前元服せさせて、実朝と云う名も京より給わり
て、やがて将軍宣旨下して、祖父の北條が世に関東は成って。
9月10日 乙亥
千幡君を吹挙し、将軍に立て奉らるるの間、沙汰有り。若君今日尼御台所より遠州の
御亭に渡御す。御輿を用いらる。女房阿波の局同輿に参る。江間の太郎殿・三浦兵衛
の尉義村等御輿寄せに候ず。今日諸御家人等の所領元の如く領掌すべきの由、多く以
て遠州の御書を下さる。これ世上を危ぶむが故なり。
[愚管抄]
頼家入道をば、伊豆の修善寺と云う山中なる堂へをしこめてけり。頼家は世の中心ち
の病にて、八月晦日にかうにて出家して、廣元がもとにすえらる程に、出家の後は一
万御前の世に成ぬとて、皆中よくて、かくしなさるべしとも思はで有けるに、やがて
出家のすなはちより病はよろしく成りたりける。九月二日かく一万御前をうつと聞て、
こはいかにと云て、かたはらなる太刀をとりて、ふと立ければ、病のなごり誠にはか
なはぬに、母の尼もとりつきなどして、やがて守りて修善寺にをしこめてけり。
9月12日 丁丑
知康・行景等上洛すべきの由仰せ下さる。仍って廣元朝臣の沙汰として、今暁各々帰
洛せしむと。
9月13日 天晴 [明月記]
巷説嗷々。武士馳走す。巳の刻ばかりに殿下に参る。仰せに云く、更に別事無し。山
の堂衆搦める間の事と。
9月14日 天晴 [明月記]
一昨日堂衆を問うに遣わす院の廰官二人今朝帰参す。
9月15日 庚辰
阿波の局尼御台所に参り申して云く、若君遠州の御亭に御座すこと然るべしと雖も、
つらつら牧の御方の躰を見るに、咲いの中に於いて害心を挿むの間、伝母を恃み難し。
定めて勝事出来せんかと。この事兼ねて思慮の内の事なり。早く迎え取り奉るべきの
由御返答。即ち江間の四郎殿・三浦兵衛の尉義村・結城の七郎朝光等を遣わし、これ
を迎え取り奉らる。遠州子細を知らず周章し給う。女房駿河の局を以て謝し申さるる
の処、成人の程は同所に於いて扶持すべきの由、御返事を仰せらると。
幕下大将軍二男の若君(字千幡君)関東の長者と為り、去る七日従五位下の位記並び
に征夷大将軍の宣旨を下さる。その状今日鎌倉に到着すと。
9月16日 [増鏡]
時政は遠江守といひて、子二人あり、太郎は宗時といふ。次郎義時といふは、心も猛
く、魂まされるが、左衛門の督をば、ふさはしからず思ひて、弟の実朝の君に附き従
ひて、思ひかまふる事などもありけり。督は、日にそへて人にもそむけられゆくに、
いといみじき病をさへして、建仁三年九月十六日、年二十二にて頭をおろす。世の中
のこり多く、何事もあたらしかるべき程なれば、さこそくちをしかりけめ。雅き子の
一萬といふにぞ、世をゆづりけれど、うけひくものなし。入道は、かの病つくろはむ
とて、鎌倉より伊豆の国へ、いでゆあびに越えたりける程に、かしこの修善寺といふ
所にて、遂に討たれぬ。一萬もやがてうしなはれけり。これは、実朝と義時と、一つ
心にてたばかりけるなるべし。
9月17日 壬午
掃部の頭入道寂忍注し申して云く、叡山の堂衆と学生と確執し合戦に及ぶ。その起こ
りと謂うは、去る五月の比、西塔釈迦堂衆と学生と合和せず。惣堂衆始めて各々別に
温室を興す。八月一日学生城郭を大納言岡並びに南谷走井坊に構え、堂衆を追却す。
同六日、堂衆三箇庄官等の勇士を引率し登山し、上件の城郭を攻め戦う。両方の傷死
の者勝計うべからず。而るに院宣を下さるるに依って、堂衆は、同七日城を棄て退散
す。学生は、同十九日城を出て下洛しをはんぬ。今に於いては静謐の由を存ずるの処、
同二十八日また蜂起す。本院の学生同心し、霊山・長楽寺・祇園等に群居し、重ねて
濫行に及ばんと欲すと。
[明月記]
後聞。今日山門の僧綱参院す。仰せに云く、この間の事惣て御沙汰有るべからず。衆
徒これを聞き、勒兵会稽を遂げんと欲す。
9月19日 甲申 晴
故比企判官能員残党中野の五郎義成以下の事、猶以てその沙汰有り。所領等を収公せ
らると。
9月21日 丙戌 晴
遠州・大官令等沙汰を経られ、入道前の将軍鎌倉中に坐せしめ給うべからざるの由、
定め申さるるなりと。
9月22日 [北條九代記]
忠経(一萬御前乳父なり)誅せられをはんぬ。
9月23日 天晴 [明月記]
頼家卿一定存命すと。或いは出家と云う。
[市河文書]
信濃の国春近領志久見郷地頭職の事
藤原能成(中野の五郎)
右件の人、本の如く彼の職たるべし。抑も能員が非法に依って、安堵し難きの由聞こ
し食すに依って、得分に於いては免ぜらるる所なり。然れば安堵の思いを成し、官仕
の忠を致すべきの状、鎌倉仰せに依って、下知件の如し。
建仁三年九月二十三日 遠江の守平(時政花押)
9月29日 甲午 霽
左金吾禅室(前将軍)伊豆の国修善寺に下向せしめ給う。巳の刻に進発し給う。先陣
の随兵百騎。次いで女騎十五騎。次いで御輿三帳。次いで小舎人童一人(征箭を負う、
騎馬)。後陣の随兵二百余騎なり。
[北條九代記]
爰に金吾所労少減するの間、密々に謀叛せしむの由風聞す。仍って伊豆の国修善寺に
遷し奉る。