10月3日 戊戌
武蔵の守朝政京都警固の為上洛す。西国に所領有るの輩、伴党として在京せしむべき
の旨、御書を廻さると。
10月8日 癸卯 天霽、風静々
今日、将軍家(年十二)御元服なり。戌の刻、遠州の名越亭に於いてその儀有り。前
の大膳大夫廣元朝臣・小山左衛門の尉朝政・安達九郎左衛門の尉景盛・和田左衛門の
尉義盛・中條右衛門の尉家長已下御家人等百余輩、侍の座に着す。江間の四郎主・左
近大夫将監親廣雑具を持参す。時刻に出御す。理髪は遠州。加冠は前の武蔵の守義信。
次いで休所に渡御す。後、御前物を進む。江間・親廣陪膳たり。役送は結城の七郎朝
光・和田兵衛の尉常盛・同三郎重茂・東の太郎重胤・波多野の次郎経朝・桜井の次郎
光高等なり(各々近習小官中、父母見存の輩を選ばれ、これを召すと)。次いで鎧・
御劔・御馬を奉る。佐々木左衛門の尉廣綱・千葉の平次兵衛の尉常秀以下これを役す。
10月9日 甲辰 快霽
今日将軍家政所始めなり。午の刻、別当遠州。廣元朝臣以下の家司(各々布衣)等、
政所に着す。民部の丞行光吉書を書く。令図書の允清定返抄を成す。遠州吉書を御前
に持参し給う。出御の儀無し。簾中に於いて故に以てこれを覧玉う。遠州本所に帰着
するの後、椀飯・盃酒の儀有り。その後始めて甲冑を着す。又乗馬し給う。遠州これ
を扶持し奉らる。小山左衛門の尉朝政・足立左衛門の尉遠元等、甲冑母廬等を着す。
次第の故実、執権悉くこれを授け奉ると。晩に及び御弓始め有り。北條の五郎奉行た
り。図書の允清定矢員を注す。和田左衛門の尉義盛的を献ると。
射手
一番 和田左衛門の尉義盛 海野の小太郎幸氏
二番 榛谷の四郎重朝 望月三郎重隆
三番 愛甲の三郎季澄 市河の五郎行重
四番 工藤の小次郎行光 藤澤の四郎清親
五番 小山の七郎朝光 和田の平太胤長
10月10日 乙巳
昨日の御弓始めの射手十人、北面の御壺に召され、故に禄を賜う。或いは野劔一腰、
或いは腹巻一領と。東の太郎・和田兵衛の尉・足立の八郎等これを伝う。
[明月記]
武士等、四條坊門の河原に於いて、堂衆を追捕するの間、九人を斬り殺すと。卯の刻
ばかりに已講来談す。衆徒、兵粮米の兵士等を責めると。
10月11日 天晴 [明月記]
人々云く、昨日討たるる法師、堂衆・学生の中の凶徒に非ず。梶井法印悪徒等を籠め
置かれ悉く討たれをはんぬ。去る年山上に於いて、座主御住房を射る。衾宣旨を下さ
るるの輩、その後憚りを成さず洛中に横行すと。
10月13日 戊申
法華堂に於いて故大将軍の御追善を修せらる。導師は眞智坊法橋。将軍家御参堂有り。
源大夫将監親廣布施を取ると。
[明月記]
夜前台嶺に火有りと。武士・学生今日猶登らず。悪徒横行すと。
10月14日 己酉
鶴岡並びに二所、三嶋・日光・宇都宮・鷲宮・野木宮以下の諸社に神馬を奉らる。こ
れ世上無為の御報賽と。
10月15日 天晴 [明月記]
遅明に山僧(学生)登山すと。今日の由兼日これを申す。扶持せんが為武士を遣わす。
武士難渋し、来十九日の由を申す。而るに学侶事すでに決するの由を称し、待たずし
て登ると。定綱(ササキ)濱手に向かう。時親(大岡)横川に向かう。午未時ばかり
九條殿に参るの間、東方を望見す。涯奥翻風、カサイ又打ち立て登山すと。参着の頭
の弁候ず。山の三綱参入す。学生追々使者を遣わす。すでに台嶺に登り、城郭を構う
の由これを申すと。
10月16日 天晴 [明月記]
巷説。官軍すでに堂衆と合戦す。石弩乱発し、矢下雨の如し。疲兵創痛し多く敗亡す
と。終夜武士多く入京す。皆病を扶け干戈に任ぜずと。
10月18日 天晴 [明月記]
堂衆戦勝すと雖も大威を隔て夜遂に引き去ると。
10月19日 甲寅
佐々木左衛門の尉定綱・中條右衛門の尉家長、使節として上洛す。これ将軍御代始な
り。京畿の御家人等、殊に忠貞を挿み、貮心を存すべからざるの由これを相触る。且
つは起請文を召し進すべきの趣、武蔵の守朝政並びに掃部の頭入道寂忍等が許に仰せ
遣わさるる所なり。両人去る九日出門すと。
[大隅臺明寺文書]
奉立 大願の事
衆集院本堂壱宇(参間四面)を造立すべき事、
右、件の本堂壱宇、造立し奉るべきの由、大願の志てえり。左衛門の尉惟宗忠久上洛
の間、無為無事安穏泰平の為、立て奉る所なり。仍って今度下向の時、早く造進せし
むべきの状件の如し。
建仁三年十月十九日 左衛門の尉惟宗(花押)
10月25日 庚申
将軍家荘厳房行勇を招請し、法華経を伝授せしめ給う。近習の男女同じく此の儀に及
ぶと。
10月26日 辛酉
京都の飛脚参着す。申して云く、去る十日、叡岳の堂衆等、八王子山を以て城郭と為
し群居するの間、同十五日官軍を差し遣わし、これを攻めらるるに依って、堂衆等退
散すと。葛西の四郎重元・豊嶋の太郎朝経・佐々木の太郎重綱以下官軍三百人、悪徒
の為討ち取られをはんぬ。伊佐の太郎・熊谷の三郎等先登に進むと。同十九日五幾七
道に仰せ、梟党等を召し進すべきの由宣下すと。その間悲しむべき事有り。佐々木中
務の丞経高・同三郎兵衛の尉盛綱、勅定を奉るに依って山門に発向せんと欲するの処、
同四郎左衛門の尉高綱入道(黒衣、桧笠を着す)高野より来たり。舎兄等に謁す。而
るに高綱入道が子息左衛門太郎重綱、伯父経高に属き出立するの間、入道子の行粧を
見るべきの由を申す。重綱甲冑を着し父の前に来る。父暫くこれを見て、敢えて瞬き
すること能わず。また詞を出さず。その後重綱休所に退去す。その際経高・盛綱等重
綱に感じて云く、今度の合戦、芸を彰わし名を挙げ、勲功の賞に預ること、その疑い
無しと。高綱入道これを聞いて云く、勇士の戦場に赴くは、兵具を以て先と為す。甲
冑は軽薄、弓箭は短小なり。これ尤も故実たり。就中、山上坂本辺の如き歩立合戦の
時、この式を守るべし。而るに重綱が甲冑太だ重く、弓箭大にして主に相応せざるの
間、更に死を免かるべからずと。果してその旨に違わず。しかのみならず彼の時兵法
の才学を吐く。盛綱等これを聞き、件の詞を意端に挿み、合戦を致すの処、一事とし
てこれに府合せざると云うこと莫しと。
10月27日 壬戌
武蔵の国諸家の輩、遠州に対し貮を存すべからざるの旨、殊にこれを仰せ含めらる。
左衛門の尉義盛奉行たりと。