1204年 (建仁4年、2月20日改元 元久元年 甲子)
 
 

3月1日 甲子 晴
  京都の使者参る。去る月二十日建仁四年を改め元久元年と為す。また同二十五日上皇
  天王寺に御幸す。これ金堂修理供養と。
 
 

3月3日 丙寅 霽
  鶴岡宮神事、法会例の如し。駿河の守季時奉幣の御使いたり。
 

3月7日 天晴 [明月記]
  少将三、頼房・実朝・忠親。
 

3月9日 壬申 晴
  武蔵の守朝雅が飛脚到着す。申して云く、去る月日、雅楽の助平惟基子孫等伊賀の国
  に起つ。中宮長司度光子息等伊勢の国に起つ。各々叛逆すと。彼の両国守護人山内首
  藤刑部の丞経俊子細を相尋ねるの処、左右無く合戦を企つ。経俊無勢に依って逃亡す
  るの間、凶徒等二箇国を虜領し、鈴鹿関・八峯山等の道路を固む。仍って上洛の人無
  しと。
 

3月10日 癸酉 霽
  京都の飛脚帰洛す。謀叛人の事、彼の国に発向し、糾弾せしむべきの由、朝政に仰せ
  らると。
 

3月15日 戊寅
  幕府に於いて天台止観の談議を始めらる。尼御台所御聴聞の為将軍の御方に徒御す。
 

3月19日 [出羽市河文書]
**関東下知状
   信濃国中野郷内能成内作壹町捌段の事
  右、名田拾町屋敷は、先日御下文を成し下されをはんぬ。内作壹町捌段、同じく能成
  に付けしむべきの状、鎌倉殿の仰せに依って、下知件の如し。
    元久元年三月十九日       遠江の守平(花押)
 

3月21日 天晴 [明月記]
  この一両日伊勢謀反の物、嗷々の由その聞こえ有り。その勢千人に及ぶと。この事評
  定か。追って参院す。大相国議定すと。頭の弁御教書を書く。伊賀の国吏務すべきの
  由朝雅に仰す。即ち追討すべしと。
 

3月22日 乙酉
  鎮西乃貢の事、掃部の頭入道寂忍勘定せしむべきの由仰せ遣わさると。

[明月記]
  密々河原に出て追討使を見る。二百騎ばかり発向す。その勢幾ばくならず。
 

3月27日 庚寅
  将軍家勝長寿院に御参り。
 

3月29日 壬辰
  伊賀・伊勢両国の平氏謀叛の事、その後左右を申さざるの間、頗る御不審無きに非ず。
  仍って今日昼夜雑色等を遣わさる。武蔵の守朝雅が下知に随い発向すべきの旨、重ね
  て京畿御家人の中に仰せらると。廣元朝臣これを奉行す。