4月1日 甲午
駿河・武蔵・越後等の国々、重ねて内検を遂ぐべきに依って、宣衡・仲業・明定等を
下し遣わさるべきの由その沙汰有り。廣元朝臣・清定奉行たり。
4月10日 癸卯 晴
笠置の解脱上人の使者、去る比参着す。当寺に於いて禮堂を建つべきの間、将軍家の
御奉加を申す所なり。仍って今日砂金已下重宝等を彼の使いに賜う。但し御奉加の状
無しと。
4月13日 朝後天陰 [明月記]
巳の時ばかり、聞書を見る。任人春秋除目の如し。
左馬権の助政憲(平時政子、實宣中将妻兄弟、近代英雄なり)、伊賀源義成(朝雅給)、
正五位下惟義(大内)、源光行(鎌倉近日蔵人頭と)。
使宣旨 範朝、左衛門の尉定綱(ササキ)、平有範。
4月16日 己酉
駿河以下三箇国内検の事、先日決定せしむと雖も、重ねてその沙汰有って延引す。こ
れ去年御代始故、撫民の御計らい有るべきに依って、有限の乃貢、猶員数を減ぜられ
をはんぬ。今年その節を遂げらるるに於いては、民戸定めて休み難きか。然れば善政
を行われざるが如し。暫く閣かるべきの由と。
4月18日 辛亥
将軍家御夢想の告げに依って、岩殿観音堂に参り給う。遠州並びに四郎・五郎等主、
及び廣元朝臣以下の扈従雲霞の如し。三浦左衛門の尉御駄餉と。
4月20日 癸丑
御家人の中、故右大将軍自筆の御書を帯するの輩間々これ在りと。進覧すべきの由仰
せ下さる。これを写し留められんが為なり。清定奉行としてこれを召し仰すと。
4月21日 甲寅 晴
武蔵の守朝雅が飛脚到着す。申して云く、去る月二十三日出京す。爰に伊勢平氏等鈴
鹿の関所を塞ぐ。険阻を索めるの際、縦え合戦を遂げずと雖も、人馬これを通り難き
に依って、美濃の国を廻り、同二十七日伊勢の国に入る。計議を凝らし、今月十日よ
り同十二日に至り合戦す。先ず進士三郎基度が朝明郡富田の館を襲い、挑戦刻を移す。
基度並びに舎弟松本の三郎盛光・同四郎・同九郎等を誅す。次いで安濃郡に於いて岡
の八郎貞重及び子息・伴類を攻め撃つ。次いで多気郡に到り、庄田の三郎佐房・同子
息師房等と相戦う。彼の輩遂に以て敗北す。また河田刑部大夫を生虜る。凡そ狼唳両
国を靡かすと雖も、蜂起三日を軼ず。件の残党猶伊賀の国に在り。重ねてこれを追討
すべしと。