1204年 (建仁4年、2月20日改元 元久元年 甲子)
 
 

4月1日 甲午
  駿河・武蔵・越後等の国々、重ねて内検を遂ぐべきに依って、宣衡・仲業・明定等を
  下し遣わさるべきの由その沙汰有り。廣元朝臣・清定奉行たり。


4月10日 癸卯 晴
  笠置の解脱上人の使者、去る比参着す。当寺に於いて禮堂を建つべきの間、将軍家の
  御奉加を申す所なり。仍って今日砂金已下重宝等を彼の使いに賜う。但し御奉加の状
  無しと。
 

4月13日 朝後天陰 [明月記]
  巳の時ばかり、聞書を見る。任人春秋除目の如し。
  左馬権の助政憲(平時政子、實宣中将妻兄弟、近代英雄なり)、伊賀源義成(朝雅給)、
  正五位下惟義(大内)、源光行(鎌倉近日蔵人頭と)。
  使宣旨 範朝、左衛門の尉定綱(ササキ)、平有範。
 

4月16日 己酉
  駿河以下三箇国内検の事、先日決定せしむと雖も、重ねてその沙汰有って延引す。こ
  れ去年御代始故、撫民の御計らい有るべきに依って、有限の乃貢、猶員数を減ぜられ
  をはんぬ。今年その節を遂げらるるに於いては、民戸定めて休み難きか。然れば善政
  を行われざるが如し。暫く閣かるべきの由と。
 

4月18日 辛亥
  将軍家御夢想の告げに依って、岩殿観音堂に参り給う。遠州並びに四郎・五郎等主、
  及び廣元朝臣以下の扈従雲霞の如し。三浦左衛門の尉御駄餉と。
 

4月20日 癸丑
  御家人の中、故右大将軍自筆の御書を帯するの輩間々これ在りと。進覧すべきの由仰
  せ下さる。これを写し留められんが為なり。清定奉行としてこれを召し仰すと。


4月21日 甲寅 晴
  武蔵の守朝雅が飛脚到着す。申して云く、去る月二十三日出京す。爰に伊勢平氏等鈴
  鹿の関所を塞ぐ。険阻を索めるの際、縦え合戦を遂げずと雖も、人馬これを通り難き
  に依って、美濃の国を廻り、同二十七日伊勢の国に入る。計議を凝らし、今月十日よ
  り同十二日に至り合戦す。先ず進士三郎基度が朝明郡富田の館を襲い、挑戦刻を移す。
  基度並びに舎弟松本の三郎盛光・同四郎・同九郎等を誅す。次いで安濃郡に於いて岡
  の八郎貞重及び子息・伴類を攻め撃つ。次いで多気郡に到り、庄田の三郎佐房・同子
  息師房等と相戦う。彼の輩遂に以て敗北す。また河田刑部大夫を生虜る。凡そ狼唳両
  国を靡かすと雖も、蜂起三日を軼ず。件の残党猶伊賀の国に在り。重ねてこれを追討
  すべしと。