1204年 (建仁4年、2月20日改元 元久元年 甲子)
 
 

5月5日 丁卯 陰
  鶴岡臨時祭例の如し。将軍家御参宮無し。廣元朝臣奉幣の御使いたりと。
 

5月6日 戊辰 晴
  朝雅が飛脚重ねて到来す。去る月二十九日伊勢の国に到る。平氏雅楽の助三郎盛時並
  びに子姪等、城郭を当国六箇山に構う。数日相支えると雖も、朝雅武勇を励ますの間、
  彼等防戦に利を失い敗北す。凡そ張本若菜の五郎城郭を構える処所、所謂、伊勢の国
  日永・若松・南村・高角・関・北野等なり。遂に関・北野に於いてその命を亡ぼすと。
  度々の合戦次第・軍士の忠否等、分明にこれを註し申す。山内首藤刑部の丞経俊・同
  瀧口の六郎等、始めは平氏の猛威に怖れ逐電せしむと雖も、後は朝雅に行き逢い、相
  共に征伐を励むの由、同じくこれを載すと。
 

5月8日 庚午
  国司等の訴えに就いて、沙汰を経らるるの事有り。所謂、山海の狩漁国衙の所役に従
  うべき事。塩谷の所当三分の一を以て地頭分と為し、抑留の儀を止むべき事。節料の
  焼米国司の得分たるべき事。以上三箇條、且つは国宣に随い、且つは先例に任せ、沙
  汰を致すべきの旨、地頭等に仰せ付けらる。左衛門の尉義村・左京の進仲業奉行たり
  と。また伊勢の国員辧郡司進士行綱、夜討ちの疑い有るに依って囚人と為すと雖も、
  彼の夜討ちは、伊勢平氏若菜の五郎等が所行たるの由、従類白状出来するの間、行綱
  が過無きの旨その沙汰有り。今日厚免を蒙る。剰え本所を安堵すべきの趣、遠州下知
  を加え給うと。
 

5月10日 壬申
  伊勢平氏等追討の賞の事、その沙汰有り。廣元朝臣・問注所入道等これを奉行す。朝
  雅伊勢の国守護職を補任す。また彼の輩の私領水田を給う。件の両国守護は経俊が本
  職なり。而るに平氏が片時の権威を恐れ逃亡するの間、改補せらるる所なり。
 

5月16日 戊寅
  尼御台所、金剛寿福寺に於いて御仏事を修せらる。祖父母の御追善と。
 

5月19日 辛巳
  故右大将家の御書等の事、先日御尋ねに就いて、所持の輩多く以てこれを進覧せしむ。
  その中小山左衛門の尉・同七郎・千葉の介、各々数十通を献らしむ。その外或いは一
  紙、若しくは両三通これを進す。皆これを写し置かる。彼の時の御成敗の意趣を知し
  食されんが為なり。廣元朝臣奉行すと。