1204年 (建仁4年、2月20日改元 元久元年 甲子)
 
 

11月3日 辛酉
  将軍家聊か御不例。

[愚管抄]
  将軍が妻に然るべき人のむすめあはせらるべしと云う事出きて、信清大納言、院(後
  鳥羽)の吾外舅、七條院(殖子)の御をととなり。それがむすめをほかる中に、十三
  歳なるをいみじくし立て、関東より武士どもむかえにまいらせて下りける。法勝寺の
  小路に御さじきつくらせて御覧じけり。そのさじきは延勝寺執行増圓法印とてありし
  者ぞ承てつくりたりける。
 

11月4日 壬戌
  伊勢の国三日平氏の跡、新補地頭等武威を募り、大神宮御上分米を停止するの由、本
  宮これを訴え申す。彼の地は当国散在の田畠なり。平氏地下を管領すと雖も、上分米
  に於いては本宮に備進するの條、所見分明の間、清定奉行として、先例を守りその弁
  えを致すべきの由、今日仰せ下さると。
 

11月5日 癸亥
  子の刻、従五位下行左馬権の助平朝臣政範(年十六、時に在京)卒す。
 

11月7日 乙丑
  笠置の解脱上人の使者参着す。申して云く、去る月十五日禮堂造畢の間、無為に供養
  を遂ぐと。これ将軍家御奉加の事賀し申すが故なりと。

[法然上人行状書]
**源空起請文
  近日の風聞にいはく、源空偏に念仏の教をすヽめて、余の教法をそしる。諸宗これに
  よりて陵夷し、諸行これによりて滅亡す云々。この旨を伝聞に、心神驚怖す。つゐに
  縡山門にきこえ、議衆徒に及て炳誠を加べきよし、貫首へ申送られ畢。この條一には
  衆勘をおそれ、一には衆恩をよろこぶ。おそるヽところは、貧道の身をもちて、忽に
  山洛のいきどほりにをよぶ。喜ところは謗法の名をけして、ながく華夷の謗をとヽめ
  む。もし衆徒の糺断にあらずば、爭か貧道の愁歎をやすめんや。凡弥陀の本願云、唯
  除五逆誹謗正法と。念仏をすヽめん輩むしろ正法をそしらんや。僻説をもて弘通し、
  虚誕をもて披露せは、尤糺断あるべし。炳誠あるべし。望ところなり。ねがふ所なり。
  此等の子細先年沙汰の時、起請を進畢。其後いまだ変せず。かさねて陳ずるにあたは
  ずといへども、厳誠すでに重疉のあひだ、誓文又再三にをよぶ。上件の子細、一事一
  事虚言をもちて会釈をまうけば、毎日七万遍の念仏むなしく其利をうしなひ、三途に
  堕落して、現当二世の依身つねに重苦に沈で、ながく楚毒をうけん。伏乞、当寺の諸
  尊満山の護法、證明知見したまへ。源空敬白。
    元久元年十一月七日      源空
 

11月9日 丁卯
  将軍家御不例平癒の後、御沐浴の儀有りと。
 

11月13日 辛未
  遠江左馬の助、去る五日京都に於いて卒去するの由、飛脚到着す。これ遠州当時の寵
  物牧の御方腹の愛子なり。御台所御迎えとして、去る月上洛し、去る三日京着す。路
  次より病悩し、遂に大事に及ぶ。父母の悲嘆更に比ぶべき無しと。
 

11月17日 乙亥
  法華堂の重宝等、去る九月紛失するの間、尋ね求むべきの由所々に触れ仰せらるるの
  処、武蔵の国に於いて、洲河の地頭件の犯人を搦め取る。今日和田左衛門の尉が宅に
  将来す。重宝悉くこれを尋ね取り随身せしむと。
 

11月18日 丙子
  法華堂の御劔以下重宝等、別当房に返し渡さる。洲河御感の仰せを蒙る。恩澤に浴す
  べきの由と。
 

11月20日 戊寅
  故遠江左馬の助が僮僕等京都より帰着す。去る六日東山の辺に葬ると。また同四日、
  武蔵の前司朝政が六角東洞院の第に於いて酒宴の間、亭主と畠山の六郎と諍論の儀有
  り。然れども会合の輩これを宥めるに依って、無為に退散しをはんぬの由、今日風聞
  すと。
 

11月26日 甲申
  将軍家日来画工に仰せ、京都に於いて将門合戦の絵を図せられ、今日到来す。掃部の
  頭入道調進する所なり。二十箇巻、蒔絵の櫃に納る。殊に御自愛と。