1206年 (元久3年、4月27日改元 建永元年 丙寅)
 
 

12月23日 己巳 晴
  重胤相州に参る。御気色を蒙る事愁歎休み難きの由を申す。相州仰せられて云く、こ
  れ始終の事に非ざるや。凡そ此の如き殃に逢うは、官仕の習いなり。但し詠歌を献ら
  ば定めて快然たらんかと。仍って当座に於いて筆を染め、一首を詠せしむ。相州これ
  に感じ、相伴い御所に参り給う。重胤門外に徘徊す。時に将軍家折節南面に出御す。
  相州彼の歌を御前に披き置かれ、重胤が愁緒の余り述懐に及び、事の躰不便の由これ
  を申さる。将軍家御詠吟両三返に及ぶ。即ち御前に召し、片土の冬気・枯野の眺望・
  鷹狩り・雪の後朝等の事を尋ね仰せらる。数刻の後相州退出し給う。重胤庭上に送り
  奉り手を合わす。賢慮に依って免許に預かり、忽ち沈淪の恨みを散ず。子葉孫枝、永
  く門下に候すべきの由これを申すと。