1207年 (建永2年、10月25日改元 承元元年 丁卯)
 
 

2月11日 戊午
  鶴岡八幡宮の神人祝部の清太国次の座衆上総の国姉前社の住人兼祐、当社神人に補せ
  らるるなり。神威に募り結党群を成し、寄せ沙汰並びに無道の濫行を好むべからざる
  の由仰せ含めらると。図書の允清定これを奉行す。
 

2月18日 [皇帝紀抄]
  源空上人(法念房と号す)土佐の国に配流せらる。専修念仏の事に依ってなり。近日
  件の門弟等、世間に充満す。事を念仏に寄せ、貴賤並びに人妻然るべきの人々の女と
  密通し、制法に拘わらず。日新の間、上人等を搦め取り、或いは切羅せられ、或いは
  その身を禁しめられ、女人等また沙汰有り。且つは専修念仏の子細、諸宗殊に欝し申
  す由の故なり。
 

2月20日 丁卯 霽
  時房朝臣去る月十四日武蔵の守に任ずるの間、国務の事、故武蔵の守義信入道が例に
  任せ、沙汰を致すべきの旨仰せ下さると。
 

2月22日 天晴 [明月記]
  夜部京中また騒動す。親能法師が辺軍兵群を成すと。その故を知らず。
 

2月28日 [法然上人行状書図]
**太政官符
  太政官 土佐国司
   流人藤井の元彦(源空)
  使左衛門の府生清原武次(従二人)
   門部二人 従各一人
  右、流人元彦を領送のために、くだんらの人をさして、発遣くたんのことし。国よろ
  しく承知して、例によりて、これををこなへ。路次の国、またよろしく食七具・馬三
  疋をたまふへし。符到奉行。
    建永二年二月二十八日      左大史中原朝臣(判)
  左少弁藤原朝臣