1207年 (建永2年、10月25日改元 承元元年 丁卯)
 
 

3月1日 丙子
  桜梅等の樹多く北の御壺に植えらる。永福寺より引き移さるる所なり。
 

3月3日 戊寅
  北の御壺に於いて鶏闘会有り。時房朝臣・親廣・朝光・義盛・遠元・景盛・常秀・常
  盛・義村・宗政等その衆たりと。
 

3月10日 乙酉
  長沼の五郎宗政伯楽の事を奉行すべきの旨仰せ付けらると。
 

[3月20日 壬辰
  武蔵の国の荒野等開発せしむべきの由、地頭等に相触るべきの趣、武州に仰せらると。
  廣元朝臣これを奉行すと。]
 

3月23日 [皇帝紀抄]
  上皇高野山に御幸。
 

3月30日 天晴 [明月記]
  人々云く、高野還御の日、兵衛の佐仲兼が侍等と秀康と闘諍す。天気不快と。後聞、
  仲兼が侍今夜忠綱を以て召し問わる。秀康を見知らざるの間、我主船を預かる所なり。
  触れ申さるべき由申すばかりなり。全く打ち及ばざるの由陳じ申す。検非違使に給い
  をはんぬ。仲兼出京す。父卿永く見来すべからずの由これを示す。件の侍新参にて、
  両三日召仕うの由、一門の人々これを称す。