1207年 (建永2年、10月25日改元 承元元年 丁卯)
 
 

9月24日 丁酉 霽
  掃部の頭入道寂忍京都より参着す。近江の国の住人磐五家次を具し参る。これ伴の四
  郎兼仗祐兼が後胤なり。去る元久元年追討せらるる所の伊勢平氏富田の三郎基度が聟
  なり。武威に募り謀叛を企つ。また諸所の道路に於いて往返の鄙民を煩すと。去る建
  仁三年叡山の堂衆蜂起せしむ事、家次が謀計より起こる。仍って彼の時これを召し禁
  しめんと擬すると雖も、逃亡し行方を知らざるの処、五日白河の辺に於いてこれを生
  虜ると。