1207年 (建永2年、10月25日改元 承元元年 丁卯)
 
 

12月1日 壬寅
  将軍家御祈りとして、鶴岡宮に於いて一日中大般若経を転読す。供僧二十五人これを
  奉仕す。御布施は口別に上絹一疋なり。民部大夫行光これを沙汰す。右京の進仲業奉
  行たり。
 

12月3日 甲辰 冱陰、白雪飛散す
  今日御所に於いて御酒宴。相州・大官令等候せらる。その間青鷺一羽進物所に入り、
  次いで寝殿の上に集まること良久し。将軍家怪しみ思し食すに依って、件の鳥を射留
  むべきの由仰せ出さるるの処、折節然るべき射手御所中に候せず。相州申されて云く、
  吾妻の四郎助光、御気色を蒙る事を愁い申さんが為、当時御所の近辺に在るか。これ
  を召さるべしと。仍って御使を遣わさるるの間、助光衣を顛に参上す。引目を挟み、
  階隠しの蔭より窺い寄り矢を発つ。彼の矢鳥に中たらざる様にこれ見ゆると雖も、鷺
  忽ち騒ぎ庭上に墜つ。助光これを進覧す。左の眼より血聊か出る。但し死ぬべきの疵
  に非ず。この箭羽(鷹羽極めて強しと)鳥の目を曳いて融る。助光兼ねて以て相計ら
  う所違い無きなりと。生きながらこれを射留む。御感殊に甚だし。元の如く昵近し奉
  るべきの由仰せ出さるるのみならず、御劔を下し給う所なり。
 

12月8日 [法然上人行状書図]
**太政官符
  太政官符 土佐国
   流人藤井元彦
  右、正三位行権中納言兼右衛門督藤原朝臣隆衡宣べ、勅を奉る。件の人ハ二月二十八
  日事につミして、かの国に配流、しかるを、おもふところあるによりて、ことにめし
  かへさしむ。但よろしく畿の内に居住して、洛中に往還する事なかるへしてえり。国
  よろしく承知して、宣によりてこれををこなへ。符到奉行。
    承元元年十二月八日       左大史小槻宿祢
  権右中弁藤原朝臣