1208年 (承元二年 戊辰)
 
 

7月5日 壬寅 天顔快霽
  神宮寺上棟。相州・武州・前の大膳大夫等これを監臨す。また惣奉行善信・朝光同じ
  く以て参向す。匠等禄を給う。大工馬二疋(一疋鞍を置く)・被物一重・裹物二つ(各
  々奥布五段を納む)。小工馬一疋(裸)・空衣一領・裹物二つ(各々奥布三段を納む)。
  行光これを奉行す。

[明月記]
  南山還御の日なり。午の刻ばかりに高陽院殿に参る。未の刻ばかりに入御す(雨灑ぐ)。
  人々多く参る。
 

7月15日 壬子
  武蔵の国威光寺の院主僧圓海参り訴えて云く、狛江入道増西、去る月二十六日、五十
  余人の悪党を率い寺領に乱入し、田を苅り狼藉に及ぶと。増西折節参候するの間、召
  し決せらるるの処、圓海の申す所相違無し。仍って濫妨を停止すべきの由仰せ出さる
  の上、永福寺の宿直百ヶ日を勤仕せしめ、その過を贖うべしと。図書の允清定これを
  奉行すと。
 

7月19日 丙辰
  永福寺阿弥陀堂に於いて二十五の三昧を行わる。仍って御聴聞の為、尼御台所並びに
  将軍家・同じく御台所等御参堂有り。御留守の間鎌倉中騒動す。これ葛西の十郎僕従
  の為に殺害せらるに依って、一族等馳せ集まるが故なり。然れども和田左衛門の尉義
  盛子細を尋ね聞き相鎮むと。
 

[7月20日 丁巳
  午の刻に地震。]
 

7月22日 己未 晴、南風塵を挙ぐ
  晩鐘の程、籐内左衛門の尉季康京都より帰参す。去る月日上皇南山に臨幸す。新宮に
  三箇日、本宮に七日御逗留なり。今月五日還御す。而るに御奉幣の後、院御所に入御
  す。幾程を経ず坊門殿の宿所失火す。御先達僧正の坊灰燼と為る。黒煙また宝殿を覆
  う。上皇臨幸す。人勢を以て打ち銷すの間無為すと。