1208年 (承元二年 戊辰)
 
 

9月3日 庚子 陰
  熊谷の小次郎直家上洛す。これ父入道、来十四日東山の麓に於いて執終すべきの由示
  し下すの間、これを見訪わんが為と。進発の後、この事御所中に披露す。珍事の由そ
  の沙汰有り。而るに廣元朝臣云く、兼ねて死期を知ること、権化に非ざれば疑い有る
  に似たりと雖も、彼の入道世塵を遁れるの後、欣求浄土・所願堅固に、念佛修行を積
  み薫修す。仰ぎて信ずべきかと。
 

9月9日 丙午
  鶴岡宮の祭、将軍家御参り無し。美作蔵人朝親奉幣の御使いたり。
 

9月27日 天晴 [明月記]
  夜半ばかりに西方に火有り。これを望むに煙甚だ細く高し。朱雀門焼亡すと。末代の
  滅亡、慟哭して余り有り。
 

9月28日 [明月記]
  伝聞、常陸の介朝俊(朝隆卿の末孫に生まれ、ただ弓馬・相撲を以て芸と為す。殊な
  る近臣なり)松明を取り門に登り鳩を取る。帰り去るの間件の火この災いを成す。近
  年天子・上皇皆鳩を好み給う。長房卿・保教等本より鳩を養う。時を得て馳走す。旧
  塔・鐘楼に登り鳩を求め取る。この事遂に以て社稷を滅す。嗚乎悲しむべきや。例弊
  日大宮大路を見る。ただ灰燼の跡有りて人家無し。京洛の磨滅尤も奇驚すべき事なり。
  これまた鳩の一事に非ず、ただ国家の衰微たるか。