1211年 (承元5年、3月9日建暦元年 辛未)
 
 

5月4日 乙卯 晴
  民部の丞康俊・伊賀の次郎光宗等の奉行として、新御所に菖蒲を葺かるべきや否や、
  陰陽道等に尋ねらるるの処、新所と雖も、御移徙の後たらば尤もこれを葺かるべし。
  以前はその憚り有りと。
 

5月10日 辛酉
  文治五年、故幕下将軍奥州に御下向の時、平泉の高屋に於いて召し取らるる所の泰衡
  が父祖代々の重宝は、彼の時供奉の宿老に分配せられをはんぬ。而るに秘かにその家
  々に在るの由、将軍家これを聞こし食すに就いて、義盛に仰せて召し出さる。多く以
  て紛失すと。少々進上するの分、御覧を経るの後本主に返さる。その中、葛西兵衛の
  尉清重が進す所の縫わざる帷は、殊に御入興と。
 

5月15日 丙寅
  未の刻地震。
 

5月18日 己巳
  御台所岩殿観音堂に御参り。武州扈従すと。
 

5月19日 庚午
  小笠原の御牧の牧士と、奉行人三浦平六兵衛の尉義村が代官と喧嘩の事有り。今日沙
  汰を経らる。此の如き地下職の人に対し、奉行と称し、恣に張行せしむの間、ややも
  すれば喧嘩に及ぶ。偏に公平を忘れるの致す所なり。早く義村の奉行を改むべきの由
  仰せ出さる。佐原太郎兵衛の尉に付けらると。
 

5月20日 辛未 陰
  鶴岡祭。右近大夫将監親廣将軍家の御使いとして奉幣す。