1211年 (承元5年、3月9日建暦元年 辛未)
 
 

6月2日 壬午 陰
  申の刻、将軍家俄に御不例。頗る御火急の気有り。仍って戌の刻、御所の南庭に於い
  て属星祭を行わる。泰貞これを奉仕す。武州御撫物並びに御衣を帯し、その所に向か
  わしめ給う。
 

6月3日 癸未 晴
  寅の刻、御不例御減す。御夢想の告げ厳重と。これ偏に去る夜の祭験の由御信仰の間、
  宮内兵衛の尉公氏を以て御使いとして、御馬一疋を泰貞に遣わさるるなり。
 

6月7日 丁亥
  越後の国三味庄の領家雑掌訴訟に依って参向す。大倉辺の民屋に寄宿せしむの処、今
  暁盗人の為に殺害せらる。曙の後、左衛門の尉義盛これを尋ね沙汰す。敵人と称し、
  件の庄の地頭代を召し取る。仍ってその親類等、縁者の女房に属き、内々尼御台所の
  御方に訴え申す。而るに義盛が沙汰相違せざるの由これを仰せ出さる。申次駿河の局
  突鼻に及ぶと。
 

6月14日 甲午
  将軍家寿福寺に御参り。
 

6月18日 戊戌
  御持仏堂に於いて御台所の御本尊(如意輪観音)を供養せらる。導師は荘厳房行勇と。
 

6月21日 辛丑
  三味庄の雑掌殺害の男露顕す。これを召し禁しめらる。故野三刑部の丞成綱が所従な
  り。主人他界の後所々に横行すと。仍って地頭代本宅に安堵せしむと。
 

6月26日 丙午
  海道に新宿を建立すべき事、度々その沙汰有りと雖も、未だ遵行せしめざるの由、そ
  の聞こえ有るに依って、今日重ねて守護・地頭等に仰せらると。