1211年 (承元5年、3月9日建暦元年 辛未)
 
 

7月2日 天晴 [玉蘂]
  中宮大夫尋ね来たり談りて云く、堂衆の事猶沙汰有り。宮々尤も不便か。また隆衡卿
  云く、先日堂衆等新院を取らんと欲すと。時に密々に冷泉家に渡御す。一夜の御宿所
  を作りけりと。
 

7月3日 壬子 晴
  酉の刻大地震。牛馬騒驚す。
 

7月4日 癸丑 霽
  将軍家貞観政要を読み合せしめ給う。
 

7月8日 丁巳
  尼御台所並びに御台所相模の国日向薬師堂に御参り。武州・遠江の守・小山左衛門の
  尉・結城左衛門の尉・三浦兵衛の尉・葛西兵衛の尉・安達右衛門の尉・佐貫右衛門の
  尉・佐原兵衛の尉・和田の四郎、以上十人供奉す。面々郎従数十騎を相列ねると。
 

7月9日 戊午
  秉燭の程、両御方日向より御還すと。
 

7月11日 庚申
  宗掃部の允孝尚勘発に預かり、武州に召し預けらる。これ下野の国中泉庄に穏田等有
  るの由、本所の訴えに及ぶの間、尋ね沙汰せしむべきの旨仰せ含めらるると雖も、今
  に対捍するの故なりと。
 

7月15日 甲子
  将軍家寿福寺に御参り。御仏事の後、方丈に於いて法談に及ぶと。