1213年 (建暦3年、12月6日改元 建保元年 癸酉)
 
 

2月1日 壬申
  幕府に於いて和歌御会有り。題は梅花万春に契る。武州・修理の亮・伊賀次郎兵衛の
  尉・和田新兵衛の尉等参会す。女房相交る。披講の後御連歌有りと。
 

2月2日 癸酉
  昵近の祇候人の中、芸能の輩を撰びこれを結番せらる(これを学問所番と号す)。各
  々当番の日は、御学問所を去らず参候せしめ、面々時の御要に随う。また和漢の古事
  を悟り語り申すべきの由と。武州奉行せらると。
   一番 修理の亮     伊賀左近蔵人     安達右衛門の尉
      嶋津左衛門の尉  江兵衛の尉      松葉の次郎
   二番 美作左近大夫   三條左近蔵人     後藤左衛門の尉
      和田新兵衛の尉  山城兵衛の尉     中山の四郎
   三番 安藝権の守    結城左衛門の尉    伊賀次郎兵衛の尉
      波多野の次郎   内藤馬の允      佐々木の八郎

[明月記]
  申の刻ばかりに、閑院造宮所に喧嘩の事有り。鎧を着す者馳せ奔る。慥な説を聞かず。
  検非違使明政と造宮の東人と闘諍す。明政子姓一人を搦め取り緬縛す。作所木屋の路
  人競い見ると。使の廰の威を以て武士と闘諍す。王法の為に太だ見苦し。不覚と謂う
  べし。未だ実説を知らず。
 

2月8日 己卯
  鶴岡八幡宮の神事、流鏑馬・競馬有り。修理の亮奉幣の御使いたり。
 

2月15日 丙戌 天霽
  千葉の介成胤法師一人を生虜り、相州に進す。これ叛逆の輩中の使い(信濃の国の住
  人、青栗の七郎が弟阿静房安念)なりと。合力の奉りを望まんが為、彼の司馬の甘縄
  の家に向かうの処、忠直を存ずるに依ってこれを召し進すと。相州即ちこの子細を上
  啓せらる。前の大膳大夫の如き評議有り。山城判官行村の方に渡され、その実否を糺
  問すべきの旨仰せ出さる。仍って金窪兵衛の尉行親を相副えらると。

[北條九代記]
  謀反の輩有り。和田の平太・同四郎・渋谷の六郎(畠山弟)・上野園田の七郎・渋河
  の六郎等なり。中将殿並びに義時を討ち、金吾将軍の次男(字千壽)を立てんと欲す。
  彼の廻文を信濃の国の僧阿念房これを持ち廻る時、千葉の介が被官粟飯原次郎件の僧
  を搦め取りをはんぬ。陰謀露顕の輩、罪科を蒙る衆の中、和田の四郎義直・同平太胤
  長(義盛弟)有り。彼の両人は左衛門の尉義盛が一族なり。これに依って義盛同意の
  疑い有り。
 

2月16日 丁亥 天晴
  安念法師の白状に依って、謀叛の輩所々に於いてこれを生虜らる。所謂、
   一村の小次郎近村(信濃の国の住人、匠作これを預かる)
   籠山の次郎(同国住人、高山の小三郎重親これを預かる)
   宿屋の次郎(山上の四郎時元これを預かる)
   上田原の平三父子三人(豊田の太郎幹重これを預かる)
   薗田の七郎成朝(上條の三郎時綱これを預かる)
   狩野の小太郎(結城左衛門の尉朝光これを預かる)
   和田四郎左衛門の尉義直(伊東の六郎祐長これを預かる)
   和田六郎兵衛の尉義重(伊東の八郎祐廣これを預かる)
   渋河刑部六郎兼守(安達右衛門の尉景盛これを預かる)
   和田の平太胤長(金窪兵衛の尉行親・安藤の次郎忠家これを預かる)
   磯野の小三郎(小山左衛門の尉朝政これを預かる)
  この外白状に云く、信濃の国保科の次郎・粟澤の太郎父子・青栗の四郎、越後の国木
  曽瀧口父子、下総の国八田の三郎・和田・奥田太・同四郎、伊勢の国金太郎・上総の
  介八郎・甥臼井の十郎・狩野の又太郎等と。凡そ張本百三十余人、伴類二百人に及ぶ
  と。その身を召し進すべきの旨、国々の守護人等に仰せらる。朝政・行村・朝光・行
  親・忠家これを奉行すと。この事の濫觴を尋ねらるれば、信濃の国の住人泉の小次郎
  親平、去々年以後謀逆を企て、上件の輩を相語らい、故左衛門の督殿の若君(尾張中
  務の丞養君)を以て大將軍と為し、相州を度り奉らんと欲すと。
 

2月18日 己丑 晴
  囚人の中、薗田の七郎成朝預かり人の家を遁れ出て逐電す。今夜先ず祈祷師僧(敬音
  と号す)の坊に向かい、日来の子細を談る。坊主勧めて云く、今度の叛逆の衆、皆四
  張の網を破るべからず。只今一旦遁れ出ると雖も、始終定めて安堵の思いを成し難か
  らんか。須く出家を遂ぐべしてえり。成朝答えて云く、与力の事は勿論なり。但し時
  儀に依って逃亡せしむは、上古より名誉有るの将帥等が所為なり。而るに左右無く素
  懐を遂げるは、頗る所存無きに似たり。就中年来受領所望の志有り。その前途を達せ
  ずんば、除髪を為すべからずと。僧甚だこれを笑い、再び言うこと無しと。その後聊
  か盃酒し、半夜に臨んで退出す。行方を知らずと。
 

2月20日 辛卯
  成朝逐電するの間、縡露顕す。件の僧を召し出され尋ね問わるるの処、成朝が申状の
  趣悉く以て言上す。将軍家これを聞こし食し、受領所望の志の事還って御感有り。早
  くこれを尋ね出し、恩赦有るべきの由と。
 

2月25日 丙申
  囚人渋河刑部六郎兼守が事、明暁誅すべきの旨、景盛に仰せられをはんぬ。兼守これ
  を伝え聞き、その愁緒に堪えず、十首の詠歌を荏柄聖廟に進すと。
 

2月26日 丁酉 晴
  工藤の籐三祐高、去る夜荏柄社に参籠す。今朝退出するの刻、昨日兼守が奉る所の十
  首の歌を取り御所に持参す。将軍家この道を賞翫し給うに依って、御感の余り、則ち
  その過を宥めらる。兼守虚名を愁い、篇什を奉り、すでに天神の利生に預かる。また
  将軍の恩化を蒙る。凡そ鬼神を感ぜしむこと、ただ和歌に在るものか。
 

2月27日 戊戌 霽
  謀叛の輩多く以て配所に遣わさると。

[皇帝紀抄]
  天皇三條烏丸の皇居より閑院に遷幸す。
 

2月30日 辛丑
  将軍家寿福寺に御参りと。