2月1日 壬申
幕府に於いて和歌御会有り。題は梅花万春に契る。武州・修理の亮・伊賀次郎兵衛の
尉・和田新兵衛の尉等参会す。女房相交る。披講の後御連歌有りと。
2月2日 癸酉
昵近の祇候人の中、芸能の輩を撰びこれを結番せらる(これを学問所番と号す)。各
々当番の日は、御学問所を去らず参候せしめ、面々時の御要に随う。また和漢の古事
を悟り語り申すべきの由と。武州奉行せらると。
一番 修理の亮 伊賀左近蔵人 安達右衛門の尉
嶋津左衛門の尉 江兵衛の尉 松葉の次郎
二番 美作左近大夫 三條左近蔵人 後藤左衛門の尉
和田新兵衛の尉 山城兵衛の尉 中山の四郎
三番 安藝権の守 結城左衛門の尉 伊賀次郎兵衛の尉
波多野の次郎 内藤馬の允 佐々木の八郎
[明月記]
申の刻ばかりに、閑院造宮所に喧嘩の事有り。鎧を着す者馳せ奔る。慥な説を聞かず。
検非違使明政と造宮の東人と闘諍す。明政子姓一人を搦め取り緬縛す。作所木屋の路
人競い見ると。使の廰の威を以て武士と闘諍す。王法の為に太だ見苦し。不覚と謂う
べし。未だ実説を知らず。
2月8日 己卯
鶴岡八幡宮の神事、流鏑馬・競馬有り。修理の亮奉幣の御使いたり。
2月15日 丙戌 天霽
千葉の介成胤法師一人を生虜り、相州に進す。これ叛逆の輩中の使い(信濃の国の住
人、青栗の七郎が弟阿静房安念)なりと。合力の奉りを望まんが為、彼の司馬の甘縄
の家に向かうの処、忠直を存ずるに依ってこれを召し進すと。相州即ちこの子細を上
啓せらる。前の大膳大夫の如き評議有り。山城判官行村の方に渡され、その実否を糺
問すべきの旨仰せ出さる。仍って金窪兵衛の尉行親を相副えらると。
[北條九代記]
謀反の輩有り。和田の平太・同四郎・渋谷の六郎(畠山弟)・上野園田の七郎・渋河
の六郎等なり。中将殿並びに義時を討ち、金吾将軍の次男(字千壽)を立てんと欲す。
彼の廻文を信濃の国の僧阿念房これを持ち廻る時、千葉の介が被官粟飯原次郎件の僧
を搦め取りをはんぬ。陰謀露顕の輩、罪科を蒙る衆の中、和田の四郎義直・同平太胤
長(義盛弟)有り。彼の両人は左衛門の尉義盛が一族なり。これに依って義盛同意の
疑い有り。
2月16日 丁亥 天晴
安念法師の白状に依って、謀叛の輩所々に於いてこれを生虜らる。所謂、
一村の小次郎近村(信濃の国の住人、匠作これを預かる)
籠山の次郎(同国住人、高山の小三郎重親これを預かる)
宿屋の次郎(山上の四郎時元これを預かる)
上田原の平三父子三人(豊田の太郎幹重これを預かる)
薗田の七郎成朝(上條の三郎時綱これを預かる)
狩野の小太郎(結城左衛門の尉朝光これを預かる)
和田四郎左衛門の尉義直(伊東の六郎祐長これを預かる)
和田六郎兵衛の尉義重(伊東の八郎祐廣これを預かる)
渋河刑部六郎兼守(安達右衛門の尉景盛これを預かる)
和田の平太胤長(金窪兵衛の尉行親・安藤の次郎忠家これを預かる)
磯野の小三郎(小山左衛門の尉朝政これを預かる)
この外白状に云く、信濃の国保科の次郎・粟澤の太郎父子・青栗の四郎、越後の国木
曽瀧口父子、下総の国八田の三郎・和田・奥田太・同四郎、伊勢の国金太郎・上総の
介八郎・甥臼井の十郎・狩野の又太郎等と。凡そ張本百三十余人、伴類二百人に及ぶ
と。その身を召し進すべきの旨、国々の守護人等に仰せらる。朝政・行村・朝光・行
親・忠家これを奉行すと。この事の濫觴を尋ねらるれば、信濃の国の住人泉の小次郎
親平、去々年以後謀逆を企て、上件の輩を相語らい、故左衛門の督殿の若君(尾張中
務の丞養君)を以て大將軍と為し、相州を度り奉らんと欲すと。
2月18日 己丑 晴
囚人の中、薗田の七郎成朝預かり人の家を遁れ出て逐電す。今夜先ず祈祷師僧(敬音
と号す)の坊に向かい、日来の子細を談る。坊主勧めて云く、今度の叛逆の衆、皆四
張の網を破るべからず。只今一旦遁れ出ると雖も、始終定めて安堵の思いを成し難か
らんか。須く出家を遂ぐべしてえり。成朝答えて云く、与力の事は勿論なり。但し時
儀に依って逃亡せしむは、上古より名誉有るの将帥等が所為なり。而るに左右無く素
懐を遂げるは、頗る所存無きに似たり。就中年来受領所望の志有り。その前途を達せ
ずんば、除髪を為すべからずと。僧甚だこれを笑い、再び言うこと無しと。その後聊
か盃酒し、半夜に臨んで退出す。行方を知らずと。
2月20日 辛卯
成朝逐電するの間、縡露顕す。件の僧を召し出され尋ね問わるるの処、成朝が申状の
趣悉く以て言上す。将軍家これを聞こし食し、受領所望の志の事還って御感有り。早
くこれを尋ね出し、恩赦有るべきの由と。
2月25日 丙申
囚人渋河刑部六郎兼守が事、明暁誅すべきの旨、景盛に仰せられをはんぬ。兼守これ
を伝え聞き、その愁緒に堪えず、十首の詠歌を荏柄聖廟に進すと。
2月26日 丁酉 晴
工藤の籐三祐高、去る夜荏柄社に参籠す。今朝退出するの刻、昨日兼守が奉る所の十
首の歌を取り御所に持参す。将軍家この道を賞翫し給うに依って、御感の余り、則ち
その過を宥めらる。兼守虚名を愁い、篇什を奉り、すでに天神の利生に預かる。また
将軍の恩化を蒙る。凡そ鬼神を感ぜしむこと、ただ和歌に在るものか。
2月27日 戊戌 霽
謀叛の輩多く以て配所に遣わさると。
[皇帝紀抄]
天皇三條烏丸の皇居より閑院に遷幸す。
2月30日 辛丑
将軍家寿福寺に御参りと。