3月2日 癸卯 天晴
今度の叛逆の張本泉の小次郎親平、違橋に隠居するの由その聞こえ有るに依って、工
藤の十郎を遣わし召さるるの処、親平左右無く合戦を企て、工藤並びに郎従数輩を殺
戮す。則ち逐電するの間、彼の前途を遮らんが為、鎌倉中騒動す。然れども遂に以て
その行方を知らずと。
3月6日 丁未 天霽
弾正大弼仲章朝臣の使者京都より到来す。去る月二十七日閑院に遷幸す。今夜即ち造
営の賞を行わる。将軍正二位に叙し給う。仍ってその除書を送り進す。正二位源實朝、
従二位籐光親(上卿)、正五位下平義時、同朝臣相模の国を重任す。この外権の弁経
高、大夫史国宗、検非違使明政の賞は、遂って申請すべしと。遷幸供奉の公卿は内大
臣・右大将・大納言二人(通光・師経)・中納言四人(忠房・雅親・實宣・有雅)・
三位二人(家良・通方)・近衛次將左九人(資家・忠家・雅経・家行・通時・公棟・
公清・定親・為家)・右八人(清信・雅信・公賢・頼房・家信・実時・敦通・宗平)
・賢所家兼・師季・宗宣なり。行幸の後、宗宣自ら奔参し、賢所入御の由を奏す。主
上御敬神の礼有るの間、出納を以て入れ奉るべきの由等閑に下知す。而るに出納緩怠
するに依ってその由を伝えず。宗宣賢所に副え奉り、終夜東門に候す。擁儀等訖わり
退出の公卿これを見て驚きながら相尋ぬ。宗宣陳ぶる所無し。更に密々これを入れ奉
る。また造宮の際公私にこれを奔営す。仍って殿舎建てるの後、指図に相違するの事
これ多し。また間数等前々の儀に似ず。作り改めるの事度々に及ぶ。南殿の間陣座を
挟む。間数限り有り。或いは南に出て小庭を無くし、或いは北に出て恭礼門無き等の
事なり。遂に以て恭礼門北を向かる。行幸の夜、清範朝臣を奉行として、弁経高を召
し、俄に南殿の西の階を破り、その階を略し南の簀子の中央をこれに寄す(溜水の湿
を去る為なり)。長橋の南板一枚これを放ち北に敷く。その跡を弘壁の下座と為すな
り。柱有りと雖も、通橋前座に着くべきが故なり。この外所々多く以てこれを改めら
る。去る月二十五日(行幸以前)上皇御覧有りと雖も、思し食し定められざるか。ま
た日来額有るべきか。陣の口鳥居有るべきか。人々に問わる。各々然るべからざるの
由を申すに依って沙汰無しと。この條々、仲章朝臣注し申す所なり。将軍家自ら披覧
せしめ御うと。
3月8日 己酉 天霽
鎌倉中兵起の由、諸国に風聞するの間、遠近の御家人群参す。幾千万を知らず。和田
左衛門の尉義盛日来上総の国伊北庄に在り。この事に依って馳参す。今日御所に参上
す。御対面有り。その次いでを以て、且つは累日の労功を考え、且つは子息義直・義
重等が勘発の事を愁う。仍って今更御感有り。沙汰を経らるに及ばず。父が数度の勲
功に募り、彼の両息の罪名を除かる。義盛老後の眉目を施し退出すと。
3月9日 庚戌 晴
義盛(木蘭地の水干・葛袴を着す)今日また御所に参る。一族九十八人を引率し、南
庭に列座す。これ囚人胤長を厚免せらるべきの由申請するに依ってなり。廣元朝臣申
次たり。而るに彼の胤長は今度の張本たり。殊に計略を廻すの旨聞こし食すの間、御
許容に能わず。即ち行親・忠家等が手より、山城判官行村方に召し渡さる。重く禁遏
を加うべきの由、相州御旨を伝えらる。この間胤長の身を面縛し、一族の座前を渡す。
行村これを請け取らしむ。義盛が逆心職而これによると。
3月10日 辛亥 晴
戌の刻、故右大将家法華堂の後山に光物有り。長一丈ばかり、遠近を照らし暫く消え
ずと。
3月16日 丁巳 霽
天変の事に依って、御所に於いて御祈り等を行わる。不動供は隆宣法橋、天冑地府祭
は大夫泰貞、南庭に於いてこれを行う。橘三蔵人惟廣御使いとしてその所に向かうと。
3月17日 戊午 陰
和田の平太胤長陸奥の国岩瀬郡に配流せらると。
3月19日 庚申 天晴
今夜御所に庚申を守り御会有り。而るに半夜に及び、甲冑の隠兵五十余輩和田左衛門
の尉義盛が宿館の辺に徘徊す。これ横山右馬の允時兼、彼の金吾の許に来たるに依っ
てなり。御用心の間、勝会を停めらる。伊賀の守朝光殊にこれを申し止む。
3月21日 壬戌
和田の平太胤長が女子(字荒鵑、年六)父の遠向を悲しむの余り、この間病脳す。頗
るその恃み少し。而るに新兵衛の尉朝盛甚だ胤長に相似るの聞こえ有り。仍って父の
帰り来たるの由を称し訪い到る。少生聊か頭を擡げ一瞬これを見て、遂に閉眼すと。
同夜火葬。母則ち素懐を遂ぐ(年二十七)。西谷の和泉阿闍梨戒師たりと。
3月23日 甲辰
浄遍僧都・浄蓮房等召しに依って宮中に参る。御所に於いて、法華・浄土両宗の旨趣
御談儀に及ぶと。
3月25日 丙寅
和田の平太胤長が屋地荏柄の前に在り。御所の東隣たるに依って、昵近の士面々頻り
にこれを望み申す。而るに今日左衛門の尉義盛女房五條の局に属き愁い申して云く、
故将軍の御時より、一族の領所収公の時、未だ他人に仰せ附けられず。彼の地は適々
宿直祇候の便有り。これを拝領せしむべきかと。忽ちこれを達せしめ、殊に喜悦の思
いを成すと。
3月28日 己巳
長定朝臣絵二十箇巻(蒔絵の櫃に納る)を献る。古今以下三代集の中、女房の作者を
撰び、その詠歌並びに事書の意を取りこれを図す。将軍家甚だ御入興と。
3月30日 辛未
将軍家寿福寺に御参り。御聴聞・御法談等有り。また去年朝光が進す所の吾が朝大師
伝の絵御随身有り。行勇律師に覧せしめ給う。彼の求法入宋の処々を観る。それに就
いて銘字の誤り等これを直し進せらると。