1213年 (建暦3年、12月6日改元 建保元年 癸酉)
 
 

4月1日 壬申
  尚友が調進する更衣の御装束京都より到着す。廣元朝臣御前に進覧す。日来遅引の御
  疑い有るに依って、尚友その科に行わるべきの旨御沙汰に及ぶと雖も、物毎に美麗の
  間、還って御感有り。剰え一村を賜うべしと。
 

4月2日 癸酉
  相州胤長が荏柄前の屋地を拝領せらる。則ち行親・忠家に分け給うの間、前給人和田
  左衛門の尉義盛が代官久野谷の彌次郎を追い出し、各々卜居する所なり。義盛欝陶を
  含むと雖も、勝劣を論ずることすでに虎鼠の如し。仍って再び子細を申すに能わず。
  先日一類を相率いて、胤長が事を参訴するの時、敢えて恩許の沙汰無く、剰えその身
  を緬縛し、一族の眼前を渡し、判官に下さる。列参の眉目を失うと称し、彼の日より
  悉く出仕を止めをはんぬ。その後義盛件の屋地を給い、聊か怨念を慰めんと欲するの
  処、事を問わず得替す。逆心いよいよ止まずして起こると。
 

4月3日 甲戌
  鶴岡の神事例の如し。武蔵の守御使いとして奉幣せらると。
 

4月4日 乙亥
  陸奥平泉寺塔破壊の事、修復の儀を励ますべきの旨、今日相州の奉書を以て、郡内の
  地頭等に仰せらる。これ甲冑の法師一人尼御台所の去る夜の御夢中に入り、平泉寺陵
  廃殊に遺恨、且つは御子孫の運の為申せしむの由と。覚めしめ御うの後この儀に及ぶ
  と。三日は秀衡法師が帰泉の日なり。若しくは彼の霊魂か。甲冑を着すの條不審有る
  の由人々これを談ると。
 

4月7日 戊寅
  幕府に於いて女房等を聚め御酒宴有り。時に山内左衛門の尉・筑後四郎兵衛の尉等屏
  中門の砌を徘徊す。将軍家簾中より御覧じ、両人を御前の縁に召し盃酒を給うの間、
  仰せられて云く、二人共命を殞すこと近くに在るか。一人は御敵たるべし。一人は御
  所に候すべき者なりと。各々怖畏の気有り。鍾を懐中にして早出すと。
 

4月8日 己卯
  御持仏堂に於いて仏生会を行わる。荘厳房参らる。また将軍家寿福寺に参り灌仏を拝
  み給うと。
 

4月15日 丙戌
  和田新兵衛の尉朝盛は将軍家の御寵物として、等倫敢えてこれを諍わず。而るに近日
  父祖一党、恨みを含み拝趨を忘る。朝盛同じく夙夜の長番を抛ち蟄居せしむ。その暇
  の隙を以て浄遍僧都に逢い、出離生死の要道を学び、読経念仏の勤修未だ怠たらず。
  漸く発心を催し、今夕すでに素懐を遂げんと欲す。年来の余波を存じ御所に参る。時
  に将軍家朗月に対し、南面に於いて和歌御会有り。女房数輩その砌に候す。朝盛参進
  し秀逸を献るの間、御感再往に及ぶ。また日来不事の子細を陳べ、公私互いに蒙霧を
  散ず。快然の余り、数箇所の地頭職を一紙に縮め載せ、直に御下文を給う。月午に及
  び朝盛退出す。帰宅すること能わず、浄蓮房の草庵に到り、忽ち除髪し実阿弥陀佛と
  号し、即ち京都を差して進発す。郎等二人・小舎人童一人、共に以て出家すと。
 

4月16日 丁亥
  朝盛出家の事、郎従等本所に走り帰り父祖等に告ぐ。この時驚きながら、閨中より一
  通の書状を求め出し披覧するの処、書き載せて云く、叛逆の企て、今に於いては定め
  て黙止せられ難きか。然りと雖も一族に順じ、主君を射奉るべからず。また御方に候
  じ、父祖に敵すべからず。如じ無為に入り自他の苦患を免かれんと。義盛この事を聞
  き太だ忿怒す。すでに法師たりと雖も、追い返すべきの由、四郎左衛門の尉義直に示
  し付く。これ朝盛は殊なる精兵なり。時に依って軍勢の棟梁たり。義盛強くこれを惜
  しむと。仍って義直鞭を揚ぐと。
 

4月17日 戊子
  御所に於いて八万四千基の塔婆を供養せらる。荘厳房導師たりと。朝盛遁世の事今日
  上聞に達す。御恋慕他念無し。刑部の丞忠季を以て父祖の別涙を訪い給うと。
 

4月18日 己丑
  義直朝盛入道を相具し、駿河の国手越の駅より馳せ帰る。仍って義盛対面を遂げ、暫
  く欝憤を散ずと。また黒衣を着ながら幕府に参る。恩喚有るに依ってなり。
 

4月20日 辛卯
  南京十五大寺に於いて衆僧を供養す。非人施行有るべきの由、将軍家年来の御素願な
  り。今日京畿内の御家人等に仰せらると。廣元朝臣奉行すと。
 

4月24日 乙未
  和田左衛門の尉義盛年来の帰依僧(伊勢の国の者、尊道房と号す)を追放す。人怪し
  みを成すの処、外には追い出すの儀を成し、内には祈祷に太神宮に参らしむの由再三
  流言有り。仍って世上いよいよ物騒すと。
 

4月26日 [皇帝紀抄]
  法勝寺九重の塔を供養せらる。仍って天皇行幸す。
 

4月27日 戊寅 霽
  宮内兵衛の尉公氏将軍家の御使いとして、和田左衛門の尉が宅に向かう。これ義盛用
  意の事有るの由聞こし食すに依って、その実否を尋ね仰せらるるが故なり。而るに公
  氏彼の家の侍に入り案内せしむ。少時、義盛御使いに相逢わんが為、寝殿より侍に来
  たり。造合(無橋)を飛越す。その際烏帽子公氏が前に抜け落つ。彼の躰人の首を斬
  るに似たり。公氏おもえらく、この人もし叛逆の志を彰わさば、誅戮に伏すべきの表
  示なり。然る後公氏將命の趣を述ぶ。義盛申して云く、右大将家の御時随分の微功を
  励ます。然れば抽賞頗る涯分に軼ぐ。而るに薨御の後未だ二十年を歴ず。頻りに睦沈
  の恨みを懐く。條々愁訴す。泣いて微音を出すと雖も、鶴望に達せず。鷁退に運を恥
  るばかりなり。更に謀叛の企て無しと。詞訖わり、保忠・義秀以下勇士等列座し、兵
  具を調え置く。仍って帰参せしめ事の由を啓すの間、相州参り給い、鎌倉に在るの御
  家人等を御所に召さる。これ義盛日来謀叛の疑い有り。事すでに発覚するが故なり。
  但し未だ甲冑を着すに及ばずと。晩景、また刑部の丞忠季を以て御使いとして、義盛
  が許に遣わさる。世を度り奉るべきの由その聞こえ有り。殊に驚き思し食す所なり。
  先ず蜂起を止め、退いて恩裁を待ち奉るべきなりと。義盛報じ申して云く、上に於い
  ては全く恨みを存ぜず。相州の所為傍若無人の間、子細を尋ね承らんが為発向すべき
  の由、近日若輩等潛かに以て群議せしむか。義盛度々これを諫めると雖も、一切拘わ
  らず。すでに同心を成しをはんぬ。この上の事力及ばずと。
 

4月28日 己卯 雨降る
  夜に入り相州御所に参り給う。廣元朝臣等を召し仰せ合わさるる事有り。また御祈祷
  の為、鶴岡に於いて大般若経を転読すべきの由供僧等に仰せらる。この外勝長寿院の
  別当法橋定豪は大威徳法、小河法印忠快は不動法、浄遍僧都は金剛童子法、天地災変
  祭は親職、天冑地府祭は泰貞、属星祭は宣賢等これを奉る。則ち廣元朝臣の奉書を以
  てこれを触れ仰せらる。山城判官次郎基行・橘三蔵人惟廣・宮内兵衛の尉公氏等御使
  いたりと。
 

4月29日 庚辰 霽
  相模の次郎朝時主、参河の国より参上す。将軍家の御気色並びに厳閣の義絶にて彼の
  国に籠居するの処、御用心の間、飛脚を以てこれを召さると。