1213年 (建暦3年、12月6日改元 建保元年 癸酉)
 
 

5月2日 壬寅 陰
  筑後左衛門の尉朝重義盛が近隣に在り。而るに義盛が館に軍兵競い集まる。その粧い
  を見その音を聞き、戎服を備え使者を発す。事の由を前の大膳大夫に告ぐ。時に件の
  朝臣賓客座に在り。盃酒方酣なり。亭主これを聞き、独り座を起ち御所に奔参す。次
  いで三浦平六左衛門の尉義村・同弟九郎右衛門の尉胤義等、始めは義盛に與し一諾を
  成す。北門を警固すべきの由、同心の起請文を書きながら、後にはこれを改変せしむ。
  兄弟各々相議して云く、曩祖三浦の平太郎為継八幡殿に属き奉り、奥州の武衡・家衡
  を征すより以降、飽くまでその恩禄を啄む所なり。今内親の勧めに就いて、忽ち累代
  の主君を射奉らば、定めて天譴を遁るべからざるものか。早く先非を翻し、彼の内議
  の趣を告げ申すべく後悔に及び、則ち相州の御亭に参入し、義盛すでに出軍の由を申
  す。時に相州囲碁会有り。この事を聞くと雖も、敢えて以て驚動の気無し。心静かに
  目算を加えるの後座を起ち、折烏帽子を立烏帽子に改め、水干を装束し幕府に参り給
  う。而るに義盛と時兼と謀合の疑い有りと雖も、今朝の事に非ざるかの由猶予するの
  間、御所に於いて敢えて警衛の備え無し。然れども両客の告げに依って、尼御台所並
  びに御台所等、営中を去り北御門を出て、鶴岡別当坊に渡御すと。
  申の刻、和田左衛門の尉義盛伴党を率い、忽ち将軍の幕下を襲う。件の與力衆と謂う
  は、嫡男和田新左衛門の尉常盛・同子息新兵衛の尉朝盛入道・三男朝夷名の三郎義秀
  ・四男和田四郎左衛門の尉義直・五男同五郎兵衛の尉義重・六男同六郎兵衛の尉義信
  ・七男同七郎秀盛、この外土屋大学の助義清・古郡左衛門の尉保忠・渋谷の次郎高重
  (横山権の守時重聟)・中山の四郎重政・同太郎行重・土肥先次郎左衛門の尉惟平・
  岡崎左衛門の尉實忠(真田與一義忠子)・梶原の六郎朝景・同次郎景衡・同三郎景盛
  ・同七郎景氏・大庭の小次郎景兼・深澤の三郎景家・大方の五郎政直・同太郎遠政・
  塩屋の三郎惟守以下、或いは親戚として或いは朋友として、去る春以来結党群を成す
  の輩なり。皆東西より起こる。百五十の軍勢を三手に相分ち、先ず幕府の南門並びに
  相州の御第(小町の上)西北両門を囲む。相州幕府に候ぜらるると雖も、留守の壮士
  等有義の勢、各々夾板を切り、その隙を以て矢石の路と為し攻戦す。義兵等多く以て
  傷死す。次いで廣元朝臣の亭酒客座に在り。未だ去らざる砌、義盛の大軍競い到り門
  前に進む。その名字を知らざると雖も、すでに矢を発ち攻戦す。淵酔の士敗軍に没す。
  その後凶徒横大路(御所南西の道なり)に到る。御所の西南政所の前に於いて、御家
  人等これを支え合戦数返に及ぶなり。波多野中務の丞忠綱先登に進む。また三浦左衛
  門の尉義村これに馳せ加わる。
  酉の刻、賊徒遂に幕府の四面を囲み、旗を靡かせ箭を飛ばす。相模修理の亮泰時・同
  次郎朝時・上総の三郎義氏等防戦に兵略を尽くす。而るに朝夷名の三郎義秀惣門を破
  り、南庭に乱入し、籠もる所の御家人等を攻撃す。剰え火を御所に放ち、郭内室屋一
  宇残らず焼亡す。これに依って将軍家右大将軍家の法華堂に入御す。火災を遁れ御う
  べきが故なり。相州・大官令御共に候ぜらる。この間挑戦に及び、鳴鏑相和し、利劔
  刃を耀かす。就中義秀猛威を振るい壮力を彰わす。すでに以て神の如し。彼に敵すの
  軍士等死を免がること無し。所謂五十嵐の小豊次・葛貫の三郎盛重・新野左近将監景
  直・礼羽蓮乗以下数輩害せらる。その中、高井三郎兵衛の尉重茂(和田の次郎義茂子、
  義盛甥なり)と義秀と攻戦す。互いに弓を棄て轡を並べ、雌雄を決せんと欲す。両人
  取り合い共に以て落馬す。遂に重茂討たれをはんぬ。義秀を取り落とすの者、この一
  人たるの上、一族の謀曲に與せず、独り御所に参り命を殞すなり。人以て感歎せざる
  と云うこと莫し。爰に義秀未だ騎馬せざるの際、相模の次郎朝時太刀を取り義秀に戦
  う。その勢を比ぶるに、更に対揚に恥じずと雖も、朝時主遂に疵を蒙るなり。然れど
  もその命を全うす。これ兵略と筋力との致す所、殆ど傍輩に越えるが故なり。また足
  利の三郎義氏、政所前の橋の傍らに於いて義秀に相逢う。義秀追って義氏が鎧の袖を
  取る。縡太だ急にして、義氏駿馬に策ち隍の西に飛ばしむ。その間鎧の袖中より絶つ。
  然れども馬倒れず、主落ちず。義秀志を励ますと雖も、合戦数刻、乗馬の疲れ極まる
  の間、泥んで隍の東に留まる。両士の勇力を論ずるに、互いに強弱無く掲焉なり。見
  る者掌を抵ち舌を鳴らす。義秀猶橋の上を廻り、義氏を追わんと擬するの刻、鷹司の
  官者その中を隔て相支えるに依って、義秀が為に害せらる。この間義氏遁れ得て奔走
  すと。また武田の五郎信光、若宮大路米町口に於いて義秀に行き逢う。互いに目を懸
  け、すでに相戦わんと欲するの処、信光男悪三郎信忠その中に馳せ入る。時に義秀信
  忠父に代わらんと欲するの形勢を感じ、馳せ過ぎをはんぬ。凡そ義盛ただに大威を播
  すのみならず、その士率一を以て千に当たる。天地震怒して相戦う。今日暮れ終夜に
  及び、星を見るに未だやまず。匠作全く彼の武勇を怖畏せず。且つは身命を棄て、且
  つは健士を勧め調え禦ぐの間、暁更に臨み、義盛漸く兵尽き箭窮まる。疲馬に策ち前
  浜の辺に遁れ退く。即ち匠作旗を揚げ勢を率い、中下馬橋を警固し給う。また米町辻
  ・大町大路等の所々に於いて合戦す。足利の三郎義氏・筑後の六郎尚知・波多野中務
  次郎経朝・潮田の三郎實秀等、勝ちに乗り凶徒を攻む。廣元朝臣は御文籍を警固せん
  が為、法華堂より政所に還る。路次御家人等を副え遣わさる。また侍従能氏(高範卿
  子)・安藝権の守範高(熱田大宮司範雅子)等納涼の地を求め、今日辺土に逍遙す。
  而るに騒動の由を聞き奔参す。路巷皆戦場たり。仍って両人共馬を山内の辺に扣える
  の処、義盛退散の隙を伺い、法華堂に参ると。

[愚管抄]
  義盛左衛門と云三浦の長者、義時を深くそねみてうたんの志ありけり。ただあらはれ
  にあらはれぬと聞て、にはかに義時が家に押寄てければ、実朝一所にてありければ、
  実朝面にふたがりてたたかはせければ、当時ある程の武士は皆義時が方にて、二日た
  たかいて義盛が頸とりてけり。それに同意したる兒玉、横山なんど云者は皆うせにけ
  り。

[北條九代記]
  申の時、義盛並びに土屋兵衛・中山四郎・横山党・相模・武蔵・安房・上総の軍兵二
  百余人與力して、義時を討たんと欲す。同日酉の刻ばかりに鎌倉御所を焼き払う。合
  戦の間、義時が勢雲集す。横山党三十余輩降人と為す。横山の介山中堂に於いて火を
  懸け焼死しをはんぬ。同三日午の時、義盛一族悉く誅戮せられをはんぬ。この内平六
  左衛門の尉義村與力と雖も、御方に参りをはんぬ。
 

5月3日 癸卯 小雨灑ぐ
  義盛粮道を絶たれ、乗馬に疲れるの処、寅の刻、横山馬の允時兼、波多野の三郎(時
  兼聟)・横山の五郎(時兼甥)以下数十人の親昵の従類等を引率し、腰越浦に馳せ来
  たるの処、すでに合戦最中なり(時兼と義盛と叛逆の事謀合の時、今日を以て箭合せ
  の期に定む。仍って今来たる)。仍ってその党類皆蓑笠を彼の所に棄て、積んで山を
  成すと。然る後義盛が陣に加わる。義盛時兼が合力を得て、新覊の馬に当たる彼是軍
  兵三千騎、猶御家人等を追奔す。辰の刻、曽我・中村・二宮・河村の輩、雲の如く騒
  ぎ蜂の如く起こる。各々武蔵大路及び稲村崎の辺に陣す。法華堂の御所より恩喚有り
  と雖も、義兵疑貽の気有り。左右無く参上すること能わず。御教書を遣わされんと欲
  するの比、数百騎の中、波多野の彌次郎朝定疵を被りながらこの召しに応ず。石橋の
  砌に参りこれを書く。彼の御教書(将軍御判を載せらる)は、安藝の国の住人山太の
  宗高を以て御使いとして遣わさるるの間、軍兵これを拝見せしめ、悉く以て御方に参
  る。また千葉の介成胤党類の練精兵を引率し馳参す。巳の刻、御書を武蔵以下の近国
  に遣わさる。然るべき御家人等に仰せ下さるる事有り。相州・大官令連署するの上、
  御判を載せらるる所なり。その状に云く、
   きんへんの物に、このよしをふれてめしくすへきなり。わだのさゑもん、つち屋の
   ひやうゑ、よこ山のものともむほんをおこして、きみをいたてまつるといへとも、
   へちの事なきなり。かたきのちりちりになりたるを、いそきうちとりてまいらすへ
   し。
     五月三日  巳の刻      大膳大夫
   某殿               相模の守
  同時に大軍を浜に向けて合戦す。義盛重ねて御所を襲わんと擬す。然れども若宮大路
  は匠作・武州防戦し給う。町大路は上総の三郎義氏、名越は近江の守頼茂、大倉は佐
  々木の五郎義清・結城左衛門の尉朝光等、各々陣を張るの間、融らんと擬するに拠所
  無し。仍って由比浦並びに若宮大路に於いて合戦時を移す。凡そ昨日よりこの昼に至
  り攻戦やまず。軍士等各々兵略を尽くすと。御方の兵に由利の中八太郎維久と云う者
  有り。弓箭の道譽れに足るものなり。若宮大路に於いて三浦の輩を射る。その箭に姓
  名を註す。古郡左衛門の尉保忠が郎従両三輩この箭に中たる。保忠大いに瞋りて、件
  の箭を取り射返すの処、匠作の鎧の草摺に立つの間、維久義盛に與せしめ、御方の大
  将軍を射奉るの由披露すと。鎮西の住人小物の又太郎資政義盛が陣に攻め入り、義秀
  が為に討ち取らる。これ故右大将家の御時、高麗を征せらるるの大将軍なり。また出
  雲の守定長折節祇候するの間、武勇の家に非ずと雖も、殊に防戦の忠を尽くす。これ
  刑部卿頼経朝臣の孫、左衛門の佐経長が男なり。また日光山の別当法眼弁覺(俗名大
  方の余一)弟子同宿等を引率し、町大路に於いて、中山の太郎行重と相戦う。小時行
  重逃れ奔ると。長尾の新六定景が子息太郎景茂・次郎胤景等、義清・惟平に相逢い闘
  戦す。而るに胤景舎弟の小童(字江丸、年十三)長尾より馳参し、兄の陣に加わり武
  芸を施す。義清等これを感じ、彼に対し箭を発たずと。義清・保忠・義秀等、三騎轡
  を並べ四方の兵を攻む。御方の軍士退散すること度々に及ぶ。仍って匠作小代の八郎
  行平を以て使者と為し、法華堂の御所に申されて云く、多勢の恃み有るに似たりと雖
  も、更に凶徒の武勇を敗り難し。重ねて賢慮を廻らさるべきかと。将軍家太だこれを
  驚かしめ給い、防戦の事、猶以て評議せられんと擬す。時に廣元朝臣政所に候ぜしむ
  るの間、その召し有り。而るに凶徒路次に満ち、怖畏無きに非ず。警固の武士を賜り
  参上すべきの由これを申すに依って、軍士等を遣わさるるの時、廣元(水干葛袴)参
  上するの後、御立願に及ぶ。廣元御願書の為筆を取る。その奥に御自筆を以て二首の
  歌を加えらる。即ち公氏を以て、彼の御願書を鶴岡に奉らる。この時に当たり、大学
  の助義清甘縄より亀谷に入り、窟堂前の路次を経て旅の御所に参らんと欲するの処、
  若宮赤橋の砌に於いて流れ矢の犯す所、義清命を亡ぼす。件の箭北方より飛び来たる。
  これ神鏑の由謳歌す。僮僕彼の首を取り寿福寺に葬る。義清当寺の本願主たるに依っ
  てなり。これ岡崎の四郎義實が二男、母は中村の庄司宗平が女なり。建暦二年十二月
  三十日大学権の助に任ず。法勝寺九重の塔造営の功と。
  酉の刻、和田四郎左衛門の尉義直(年三十七)伊具馬太郎盛重が為に討ち取らる。父
  義盛(年六十七)殊に歎息す。年来義直を鍾愛せしむに依って禄を願う所なり。今に
  於いては、合戦を励ますに益無しと。声を揚げて悲哭し東西に迷惑す。遂に江戸左衛
  門の尉義範が所従に討たるると。同男五郎兵衛の尉義重(年三十四)・六郎兵衛の尉
  義信(二十八)・七郎秀盛(十五)以下張本七人共伏誅す。朝夷名の三郎義秀(三十
  八)並びに数率等海浜に出て、船に棹さし安房の国に赴く。その勢五百騎、船六艘と。
  また新左衛門の尉常盛(四十二)・山内先次郎左衛門の尉・岡崎余一左衛門の尉・横
  山馬の允・古郡左衛門の尉・和田新兵衛入道、以上大将軍六人は戦場を遁れ逐電すと。
  この輩悉く敗北するの間、世上無為に属く。その後相州、行親・忠家を以て死骸等を
  実検せらる。仮屋を由比浦の汀に構え、義盛以下の首を取り聚む。昏黒に及ぶの間、
  各々松明を取る。また相州・大官令仰せを承り飛脚を発せられ、御書を京都に遣わす。
  両人連署の上、将軍家御判を載せらるる所なり。これ義盛伏誅せしむと雖も、余党紛
  散せしめ、未だその存亡を知らず。凡そ京畿の間、骨肉有り。不日に羂策の義無くん
  ば、後昆の狼唳を断ち難からんや。御書の様、
   和田左衛門の尉義盛・土屋大学の助義清・横山右馬の允時兼、すへて相模のものと
   も、謀叛をおこすといへとも、義盛命を殞しをはんぬ。御所方別の御事なし。しか
   れとも親類おヽきうへ、戦場よりもちりちりになるよしきこしめす。海より西海へ
   とおちゆき候ぬらむ。有範・廣綱おのおのそなたさまの御家人等に、この御ふみの
   あんをめくらしてあまねくあひふれて、用意をいたしてうちとりてまいらすへき也。
     五月三日  酉の刻      大膳大夫
   佐々木左衛門の尉殿        相模の守
  また昨今両日合戦を致すの輩、多く以て匠作の御亭に参る。亭主盃酒を件の来客に勧
  め給う。この際仰せられて云く、飲酒に於いては永くこれを停止せんと欲す。その故
  は、去る朔日夜に入り、数献会有り。而るに暁天(二日)義盛襲来するの刻、なまじ
  いに以て甲冑を着し、騎馬せしむと雖も、淵酔の余気に依って忙然たるの間、向後は
  断酒すべきの由誓願しをはんぬ。而るに度々相戦うの後、喉を潤さんが為水を尋ねる
  の処、葛西の六郎(武蔵の国の住人)小筒と盃とを取り副えこれを勧む。その期に臨
  み以前の意忽ち変りこれを用ゆ。盃に至らば景綱(尾藤の次郎)に給う。人性時に於
  いて定まらず。比興の事なり。但し自今以後、猶大飲を好むべからずと。

[皇帝紀抄]
  栄西上人大師号の沙汰有り。

[明月記]
  今日栄西法印大師号を賜うべきの由その聞こえ有り。また議定等有り。今日その事無
  し。定説を云わずと。聞き驚くこと少なからず。存生の大師号我が朝先蹤これ無し。
  誰人何を議定すか。勝事と謂うべし。先に僧正聞こえ有り。その事を止めこの事有り。
  凡そ筆端の及ぶ所に非ず。
 

5月4日 甲辰 小雨降る
  古郡左衛門の尉兄弟は、甲斐の国坂東山波加利の東競石郷二木に於いて自殺す。和田
  新左衛門の尉常盛(年四十二)[並びに横山右馬の允時兼(年六十一)等は、坂東山
  償原別所に於いて自殺すと。]時兼は、横山権の守時廣が嫡男なり。伯母(時廣妹な
  り)は義盛が妻たり。妹はまた常盛に嫁す。故に今この謀叛與同すと。件の両人の首
  今日到来す。凡そ固瀬河の辺に梟す所の首二百三十四なり。
  辰の刻、将軍家法華堂より東御所(尼御台所の御第)に入御す。その後西御門(幕を
  曳く)に於いて、両日合戦の間疵を被る軍士等これを召し聚められ、実検を加えらる。
  山城判官行村奉行たり。行親・忠家これを相副う。疵を被るの者凡そ百八十八人なり。
  その内相模の次郎は御所中に参る。庭上を経て小御所東面の簾中に入る。行歩進退な
  らざるに依って、匠作扶持し給う。これ去る二日、義秀と[相戦って疵を被る所なり。
  老軍この躰を見て落涙に及ぶと。次いで将軍家軍士等が勲功の浅深を尋ね聞かしめ給
  う。]爰に波多野中務の丞忠綱申して云く、米町並びに政所に於いて、両度先登に進
  むと。米町の事は置いて論ぜず。政所前の合戦は、三浦左衛門の尉義村先登の由これ
  を申す。南庭に於いて各々嗷々の論に及ぶの間、相州忠綱を閑所に招き、密々に仰せ
  られて云く、今度世上無為の條、偏に義村が忠節に依る。然かれば米町合戦先登の事、
  異論無きの上は、政所前先登の事は、彼の金吾に対し、相論時儀に叶い難きか。穏便
  を存ぜば、不次の賞に行われんこと、その疑い無しと。忠綱申して云く、勇士の戦場
  に向かうは、先登を以て本意と為す。忠綱苟も家業を継ぎ弓馬に携わり、何箇度と雖
  も、盍ぞ先登に進まざらんや。一旦の賞に耽り、万代の名を汚すべからずと。而るに
  彼の真偽を知ろし食さんが為、忠綱・義村等を北面藤の御壺の内に召す。将軍家出御
  し、御簾を上げらる。相州(水干)・大官令(同)・民部大夫行光(直垂)等廣廂に
  候せらる。他人その所に臨まず。行光奉行として、先ず義村(紺村濃の鎧直垂)を召
  し、次いで忠綱(黄木蘭地の鎧直垂)を召す。両人簀子の圓座に候し対決を遂ぐ。義
  村申して云く、義盛襲来の最前、義村政所の前に馳せ向かい、南に於いて箭を発つの
  時、微塵と雖もその前に飛び行かずと。忠綱申して云く、忠綱一人先登に進む。義村
  は忠綱が子息経朝・朝定等を隔て後陣に在り。而るに忠綱を見ざるの由を申す。盲目
  たらんか。これに依って彼の時の戦士等、皇后宮少進・山城判官次郎・金子の太郎に
  尋ねらる。答え申して云く、赤皮威の鎧・葦毛の馬に駕すの軍士先登すと。これ忠綱
  なり。件の馬は、相州より拝領せしむ所なり。片洲と号すと。また義盛が親昵の伴党
  等これを策め捜さる。
 

5月5日 乙巳 天霽
  義盛・時兼以下謀叛の輩の所領、美作・淡路等の国守護職、横山庄以下宗たるの所々、
  先ず以てこれを収公す。勇敢の勲功の賞に宛てらるべしと。相州・大官令これを沙汰
  し申さる。次いで侍別当の事、義盛が闕を以て相州に仰せらると。また去る三日、由
  利の中八太郎維久匠作を射奉る事、造意の企てなり。すでに義盛に同ずること、糺明
  せらるべきの由その沙汰有り。件の箭を御所に召さるるの処、矢注分明なり。更にそ
  の咎を遁れ難きの間、御気色有り。而るに維久陳じ申して云く、御方に候し凶徒を防
  禦する事、武州見知らしめ給う。尋ね決せらるるの後、罪科の左右有るべきかと。仍
  って武州を召す。武州申されて云く、維久若宮大路に於いて、保忠に対し箭を発つこ
  と度々に及ぶ。この時凶徒等漸く引くなり。推量の覃ぶ所、阿党彼の箭を射返すかと。
  然れども猶以てこれを宥められずと。
 

5月6日 丙午 天霽
  岡崎余一左衛門の尉父子三人誅せらると。申の刻、将軍家前の大膳大夫廣元朝臣の亭
  に入御す。これ去る二日御所焼失するに依ってなり。御台所(御輿)、また南御堂よ
  りその所に入御す。尼御台所(御輿)本所に渡御す。今日、相州左衛門の尉行親を以
  て侍所司に定めらると。また行村・行親・忠家等に仰せ、今度の亡卒・生虜等の交名
  を注せらる。各々日来広くこれを尋ね記し、遂に献上せしむ所なり。御覧を歴るの後、
  廣元朝臣に預けらると。その状に云く(本ニハ具にこれを記す。今これを略す。人数
  ばかりこれを記す)
    建暦三年五月二日三日の合戦に討たるる人々の日記
   和田左衛門の尉  同新左衛門     あさいなの三郎  同四郎左衛門の尉
   同五郎兵衛    同六郎兵衛     同七郎      同新兵衛入道
   同八郎      同五郎       同宮内入道    同弥次郎 
   同弥三郎(この外小者・郎等は注さず) 以上十三人
  一、横山の人々
   横山右馬の允   やないの六郎    平山の次郎    同小次郎
   あいはら太郎   同小次郎      同籐五郎     たなの兵衛
   たなの太郎    岡の次郎      小山の太郎    ちちう次郎
   同太郎      同次郎       同五郎      古郡左衛門
   同五郎      同六郎       同おい一人    同弟二人
   同次郎      くぬきたの太郎   同次郎      同五郎
   同三郎      同五郎       同又五郎     横山の六郎
   同七郎      同九郎       以上三十一人
  一、土屋の人々
   大学の助     同新兵衛      同次郎      同三郎
   同四郎      薗田の七郎     同太郎      同次郎
   やきゐの太郎   同次郎       以上十人
  一、山内の人々
   山内左衛門    同太郎       同次郎      岡崎左衛門の尉
   同太郎      同次郎       由井の太郎    高井兵衛
   ふくいの小次郎  同七郎       大多和の四郎   同五郎
   大方の小次郎   同五郎       成山の四郎    同太郎
   同次郎      高橋の小次郎    土肥左衛門太郎  同次郎
                      以上二十人
  一、渋谷の人々
   渋谷せんさの次郎 同三郎       同五郎      同小次郎
   同小三郎     小山の四郎     同太郎      同次郎
                      以上八人
  一、毛利の人々
   毛利の太郎    同小太郎      同小次郎     同もりへの五郎
   おい一人     むこ一人      渋河左衛門    同小次郎
   同左衛門太郎   同次郎       以上十人
  一、鎌倉の人々
   梶原刑部     同太郎       同小次郎     宇佐美平太左衛門
   大庭の小次郎   土肥の小太郎    豊田の平太    四宮の三郎
   同太郎      愛甲の小太郎    同三郎      同五郎
   金子の太郎              以上十三人
  一、
   逸見の五郎    同次郎       同太郎      海老名兵衛
   同太郎兵衛    同次郎       同三郎      同四郎
   おきのヽ八郎   六浦の三郎     同平三      同六郎
   同七郎      松田の三郎     同小次郎     同四郎
   同六郎      同七郎       あいたの三郎   同四郎
   さヽのふの六野太 波多野の三郎    同太郎      同彌次郎
   こさの入道    同禅師八郎     同五郎      塩谷の三郎
   同太郎      かせの彌次郎    しらねの與三次郎 さなたの春八
   かたひうの彌八  同太郎       同次郎      同三郎
   つくいの七郎   以上三十七人(この外小者・郎等をはしるさず)
  一、いけとりの人々
   愛甲右衛門    同太郎       おほちの三郎   村岡の五郎
   同太郎      同三郎       同四郎      をきのヽ彌八郎
   同太郎      富田の太郎     三浦高井の太郎父子(各々兼ねて出家す)
   小高の太郎    同次郎       金子の與一太郎  同與次
   宇佐美平左衛門  をしぬきの野三   同太郎      ふかさわの次郎
   こまの太郎    高田の太郎     同中八太郎    同四郎
   こもの次郎(つくしの人)園田の六郎  同太郎      むかいの四郎
            以上二十八人
  一、御方の討たるる人々
   筑後四郎兵衛   壱岐兵衛      同四郎      安東四郎兵衛
   いなの兵衛    そめやの刑部    同太郎      こがの三郎
   ひちかたの次郎  大ぬきの五郎    小河馬太郎    たかへの左近
   籐次郎      ときかやの四郎   神野左近     うち山八郎
   新平馬の允    富所の次郎     同小次郎     同太郎
   ぬまたの七郎   同次郎       五條の七郎太郎  林の太郎
   黒田の弥平太   平野の與一     とい岡の五郎   河井の籐四郎
   山田の次郎    西山の太八     同太郎      片山刑部太郎
   同八郎太郎    したかの小次郎   泉の六郎     松本の九郎
   籐三       蓮乗坊       こんのヽ左近   たか井の兵衛
   林内籐次     つくいのさい太郎  五十嵐の小豊次  籐五郎
   富士の四郎    栗林加藤次     つくしの税所次郎 殿岡の五郎
   足洗の四郎    與田の小太郎    おしたかの三郎
            以上五十一人(この外手負い、源氏侍千余人)
 

5月7日 丁未 天霽
  勲功の事、宗たる分今日先ずこれを定めらる。波多野中務の丞忠綱が事、無双の軍忠
  に於いては、御疑いに及ばずと雖も、御前に於いて対決の時、義村を以て盲目と称し
  悪口を為すの上は、賞に加えざるを以て、罪科に准うべきの由沙汰有り。閣かるる所
  なり。子息次郎経朝が賞の事はこれを行わる。また由利の中八太郎遂に所領を召し放
  たると。
   甲斐の国波加利本庄 武田の冠者    同新庄     嶋津左衛門の尉
   同国古郡      加藤兵衛の尉   同国岩間    伊賀次郎左衛門の尉
   同国福地      鎌田兵衛の尉   同国井上    大須賀の四郎
   相模の国山内庄   相州       同国菖蒲    同上
   同国大井庄     山城判官     同国懐島    山城四郎兵衛の尉
   同国岡崎      近藤左衛門の尉  同国渋谷庄   女房因幡の局
   坂東田原      志村の次郎    武蔵の国長井庄 籐九郎次郎
   横山庄       大膳大夫     上総の国飯富庄 武州
   同国伊北郡     平九郎左衛門の尉 同国幾與宇   籐内兵衛の尉
   常陸の国左都    伊賀の前司    上野の国桃井  籐内左衛門の尉
   陸奥の国遠田郡   修理の亮     同国三迫    籐民部大夫
   同国名取郡     平六左衛門の尉  同国由利郡   大貳の局
   金窪        左衛門の尉行親
 今日、相州大倉より若宮大路の御亭に渡御す。その後祇候人等勲功の賞を蒙ると。
 

5月8日 戊申
  山内刑部大夫経俊義盛が與力衆山内先次郎左衛門の尉(先に出家す)を生虜る。これ
  その好有るに依って、経俊が宅に来ると。遠江の守親廣京都より参着す。修造の塔婆
  を供養せんが為上洛す。その節を終うの間、去る二日出京するの処、路次に於いて合
  戦の事を聞き、鞭を揚ぐと。晩景に属き、修理の亮(泰時)御所に参らる。これ去る
  五日勲功の賞に預かる。而るに存案有りと称し、件の御下文を廣元朝臣に属け上表せ
  らるるの間、将軍家等の巡賞なり。辞し申すべからざるの旨仰せ下さると雖も、固辞
  再三に及ぶ。仍ってその意趣を恠しめ御うの処、時に匠作申されて云く、義盛上に於
  いて逆心を挿まず。ただ相州に阿党を為す。謀反を起こすの時防戦するの間、その寄
  せ無きの御家人多く夭亡す。然ればこの所を以て、彼の勲功の不足に宛て行わるべき
  か。下官父の敵を攻撃するに依って、強ち賞を蒙るべきに非ずと。世以てこれを感嘆
  せざると云うこと莫し。然れども重ねて仰せらるる所なり。

[皇帝紀抄]
  風聞。関東合戦の事、これ三浦和田左衛門が所為と。
 

5月9日 己酉 天晴
  廣元朝臣の奉行として、御教書を在京の御家人の中に送らる。相州・大官令連署す。
  また御判を載せらると。これ在京の武士参向すべからず。関東に於いては静謐せしめ
  をはんぬ。早く院の御所を守護すべし。また謀叛の輩西海に廻るの由その聞こえ有り。
  用意を致すべきの由なり。佐々木左衛門の尉廣綱に仰せらると。晩景に及び、近江・
  美濃・尾張等の国の御家人参着す。国土人民の煩いすでに以て千万す。悉く東作の勤
  めを忘ると。今日重ねて勲功の賞の御下文等、これを伊賀の前司朝光以下数輩に賜う
  と。また和田の平太胤長、配所陸奥の国岩瀬郡鏡沼南の辺に於いて誅せらる(年三十
  一)。

[明月記]
  今朝聞く、関東勝事出来すと。伝々の説、和田左衛門の尉某(三浦党と号す)・横山
  党(両人共その勢抜群の者と)合い謀り、去る二日申の時、忽ち将軍の幕下を襲う。
  その時将軍更に警衛の備え無し。或いは杯酒に淵酔すと。忽然周章合戦す。その夜曙、
  翌日また暮。旦にて戦い、星を見て未だやまず。将軍と外舅相模の守義時・大膳大夫
  廣元等、間行して入山し、脱身して隙去す。賊また大威を隔つ。而るに夜遂に引き去
  る。但し悉く城郭を焼き、室屋残り破らざること無し。主金吾また戦場に死す。散卒
  船を儲け、海上より逃げ去ると。天下の勝事何事かこれに過ぎんや。また巷説に云く、
  彼の賊徒の党類・枝葉在京の者多し。且つは追捕・滅亡目前なり。京中また騒動すと。
  戌の時ばかりに参院す。中宮権の亮ほぼ関東の事を語る。二日申の時和田左衛門(義
  盛)が宿所に忽ち甲兵の音を聞く。去る春謀反の者結党するの由風聞・落書等有り。
  件の義盛その張本たり。而るに自ら披陳す。子細を聞き、すでに以て免許し、和解の
  気色有り。尋常の時の如く、近辺の宿所に在り。而るに猶内々の議有って、鯨鯢たる
  べきの由これを聞く。茲に因って更に党を聚めその計を成す。その近辺宿所の者(又
  左衛門の尉)これを聞き、即ち戎服を備え、使者を廣元朝臣に発す。時に件の朝臣賓
  客座に在り、杯酒方酣なり。亭主これを聞き、独り座を起ち、将軍の在所に奔参す。
  相共にその所を逃げ去り、故将軍の墓所堂(去る七八町、或いは云く二階堂)に赴く。
  この間義盛が甥三浦左衛門の尉義村(本より叔父に與す、違背し仇讐と為る)、義盛
  すでに出軍するの由を告ぐ。依って人々母儀・妻室等に告げ、僅かに逃げ去るの間、
  義盛が兵すでに進む。先ず廣元の宿所を囲む。酒客未だ去らず。大軍忽ちに至る。酔
  郷の士彼の客を救うに依って、即ち放火しその城郭を焼く。室屋一宇も残らず。二日
  夕より四日朝に至り、攻戦やまず。義盛が士卒一を以て当千、天地震怒す。この間千
  葉の党類(常胤孫子)の練精兵、隣国より超え来たる。義盛兵尽き矢窮まると雖も、
  疲足の兵を策ち、新覊の馬に当たる。然れば尚追奔し、北に遂い横大路(鎌倉の前に
  この路有り)に至る。この時義村の兵またその後を塞ぎ、義盛を大破す。茲に因って
  遂に免かれ得ず。多くの散卒等浜に出て、船に棹さし安房の方に向かう。その勢五百
  騎ばかり、船六艘。その後廣元が消息の飛脚到来す。昨日申の刻ばかりに参着す。そ
  の後公経また音信の者無く、京畿の骨肉有るの輩、未だその存亡を知らず、在京の武
  士等下るべき由を申すと雖も、且つは天気有って留めらる。京中警固の為なり。遠江
  の守親廣塔供養に依って在京す。去る二日下向す。これを聞き鞭を揚ぐと。或いは云
  く、近江の守頼茂、去る比下向す。最前に終命すと。また侍従能氏(高能卿子)、正
  月の比下向す。軍陣に死すと。相模の国司両息・親能法師子・廣元朝臣子、皆死すと。
  実否を知らず。

[二階堂文書]
**源実朝袖判下文
    (実朝花押)
  下 相模の国懐島殿原郷住人
   地頭職に補任の事
    左兵衛の尉藤原元行
  右の人、勲功の勧賞に依って、彼の職に補任するの状件の如し。
    建暦三年五月九日
 

5月10日 庚戌 天霽
  日光山の別当但馬法眼弁覺勲功の賞に預かる。即ち御所に召す。僧徒の身として戦場
  に赴く、忠節の至り、尤も感じ思し食さるるの由、相州を以てこれを仰せらる。弁覺
  報じ申して云く、将軍家御寿算を祈り奉るの間、呪詛霊気の祟り、猶以て降伏すべし。
  況や現形せしむ所の御敵盍ぞこれを罰せざらんや。鎮西土黒庄を拝領する所なり。ま
  た出雲の守長定同じく賞を蒙る。
 

5月14日 天晴 [明月記]
  巷説更に静まらず。関東重ねて来る使者無しと。或る説に云く、賊軍猶存しその粮道
  を絶つ。将軍未だ没せずと雖も、事太だ急なり。故に使者を発し得ずと。京中並びに
  近江・美濃等の武士各々下向せしむの謀り、国土人民の煩いすでに以て千万す。すで
  に東作の勤めを忘ると。(中略)京中また討つべき輩有る由風聞す。相互に嫌疑す。
  警固の者多しと。
 

5月15日 乙卯 天晴
  亥の刻地震両度。

[明月記]
  京中の浮説、院より御禁制有り。各々無事の由風聞すと。故親弘入道養子左衛門の尉
  (実父三浦の輩と)六波羅の宅に在り。本姓に依ってその弟警固す。検非違使義成の
  子左衛門の尉成時筑紫より上洛す。彼の金吾を討たんと欲するの由、夜前その聞こえ
  有り。今朝無事と。昏亜相亭に向かう。廣綱(サヽキ左衛門)今日到来する脚力を相
  共ない参院す。退出の次いでに入来す。件の脚力戦場を見る者なり。委しくこれを語
  る。大略無為す。死傷の聞こえ有るの輩多く存命す。謀叛の散卒方々に行き向かう。
  各々官軍を遣わすと。この説太だ尋常。有憲・廣綱等武士六人明日下向す。各々馬を
  乞う。悉く與うの由称せらる。数多の武士下向し、路頭定めて枯稿すか。向後飢饉疑
  うべからず。
 

5月17日 丁巳
  先次郎左衛門の尉政宣が所領、武蔵の国大河戸の御厨の内、八條郷を式部大夫重清に
  賜う。但し地頭渋江の五郎光衡は、本所の如き安堵すべきの由仰せ下さるる所なり。
  相州・前の大膳大夫下知を加えらると。

[明月記]
  昨日関東より到来の書有りと。廣綱に仰す所なり。廣元・能時各々加判す。また将軍
  の判有りと。在京の武士下向すべからず。院の御所を守護すべし。また謀反の輩西海
  に廻るの由聞こえ有り。用意を致すべしと。
 

5月21日 辛酉
  午の刻大地震。音有って舎屋破壊す。山崩れ地裂く。この境に於いて近代此の如き大
  動無しと。而るに二十五日の内、兵動有るべきの由、陰陽道これを勘じ申すと。
 

5月22日 壬戌 天晴
  関東の飛脚等京都より帰参す。初めの使節は去る八日戌の刻に入洛す。後の飛脚は同
  十四日丑の刻に入洛す。茲に因って京中の浮説一に非ず。院より御禁制有り。また在
  京の士卒参向すべきの由を申すと雖も、天気有って、洛中を警固せんが為これを留め
  らる。佐々木左衛門の尉廣綱私の飛脚を得て、五條大夫判官有範(有範・廣綱、各々
  坊門殿より馬を給う)を相伴い、すでに進発せんと擬するの処、御教書到着するの間
  留まりをはんぬ。また去る十四日、故掃部の頭親能入道猶子左衛門の尉能直六波羅の
  家に在り。三浦の輩は外家の好有るに依って、その身を警固す。小野六郎左衛門の尉
  成時(大夫の尉義成子)筑紫より上洛す。彼の金吾を討たんと欲す。院より御禁制の
  間無事と。