1213年 (建暦3年、12月6日改元 建保元年 癸酉)
 
 

6月2日 辛未 晴、炎旱旬を渉る
  今日、寿福寺長老(栄西)京都より参着す。日来大師号を所望す。去る月三日議定有
  り。存生大師号の事、本朝先蹤無きに依って、同四日権の僧正に任ぜらる(元は権の
  律師)と。
 

6月3日 壬申 天霽
  寅の刻地震の御祈りを行わる。不動の護摩は隆宣法橋。金剛童子法は豪信法眼。また
  泰貞天地災変祭を奉仕す。駿河の守惟義これを沙汰す。
 

6月8日 丁丑 霽
  属星祭(千葉の介常胤の沙汰)を行わる。大夫宣賢これを奉仕す。故親能入道が亀谷
  堂に齋籠せしむ。美作蔵人朝賢御使いたり。これ去る月二日合戦の時、御立願の随一
  なり。
 

6月12日 辛巳 晴
  寅の刻俄に以て騒動す。御家人等甲冑を着し御所に馳参す(時に廣元亭に在り)。そ
  の実無きに依って即ち静謐す。これ直事に非ざるなり。
 

6月25日 甲午
  廣澤左衛門の尉實高備後の国より帰参す。これ海陸の賊徒蜂起せしむの間、これを相
  鎮む。去々年使節として彼の国に下向す。而るに志を義盛に通じ、征箭尻百腰を用意
  せしめ送り遣わすの由、讒訴出来す。在京の士に仰せられ、その身を誅すべきの趣御
  沙汰に及ぶ。實高これを知らず、今日すでに参着せしむる所なり。朋友等の密告を得
  て、則ち波多野中務次郎経朝以下一族相共に御所に列参す。廣元朝臣に属き陳じ申し
  て云く、征箭の事に於いては、全く彼の賄いに備えず。義盛侍別当として、別の仰せ
  と称し相催すの間、別忠の由を存じこれを遣わしをはんぬ。且つは義盛が状分明なり。
  早く讒人を召し決せられ、この外もし同意の證拠有らば、實高刑を免がれ難からんか。
  然らずんば讒者の過、爭か黙止せられんやと。義盛の書状を御覧に及び、仰せの字を
  載するの上は左右に能わず。實高多年昵近の奉公するの間、兼ねて貳無きの由を知ろ
  し食しをはんぬ。今また陳謝の趣その理有り。元の如く近々に候すべきの旨、直に仰
  せ含めらると。
 

6月26日 乙未 天霽
  相州・武州・大官令等参会す。御所新造の事群議に及ぶ。陰陽の大允親職・大夫泰貞
  ・宣賢連署の勘文を進す。これ去る五月合戦の時焼失するに依ってなり。
 

6月28日 天晴 [明月記]
  関東の事、人々の浮説猶静まらずと。
 

6月29日 戊戌 天晴
  戌の刻光物有り。暫く北天を照らし南方に行く。地天に随い岡の如く所々を燿かす。
  諸人これを見て、或いは人魂と謂い、或いは流星と称す。

[明月記]
  夜に入るの後巽方に光物有り。その光偏に炬火の如し。蒼卒に見えず。その物の體た
  だ光明を見る(後聞流星と)。