1213年 (建暦3年、12月6日改元 建保元年 癸酉)
 
 

11月5日 辛未 小雨
  丑の刻御所の辺騒動す。但し時刻を経ず静謐す。これ三浦平九郎右衛門の尉胤義女事
  に依って闘乱を起こすの間、彼の一族等遽に馳せ候すの故なり。
 

11月8日 天晴 [明月記]
  二條中将過談す。南京の衆徒今日の進発十四日に延引すと。道長法印御使として登山
  す。且つは訓釈す。また威伏の処、天台の衆徒半ば承諾す。勅定に随い検使を存ずべ
  き由大略これを申す。谷々すでに證文を出すと。(中略)将軍和歌の文書を求めらる
  るの由これを聞く。仍って相伝する所の秘蔵万葉集を送り奉る由書状を書く。昨日こ
  の羽林に付けをはんぬ。廣元朝臣消息の次いでに、下官愁訴有らんか。委しく承るべ
  き由示し送るの由、先度対面の時中将これを語る。その事に依ってこの志を表すなり。
  勢州地頭の事、年来の愁訴何事かこれに過ぎんや。予本より世事に染まらざるに依っ
  て奔営せず。この事尋ね問わるるの時猶黙止せんか。仍ってその事を示し達すなり。
 

11月9日 天陰 [明月記]
  僧都過談す。山上、東塔すでに無為す。西塔猶勅定に随わず。今日殊に西塔に仰せら
  る。僧綱慥に制止を加うべき由院宣有りと。
 

11月10日 丙子 天霽
  夜に入り、故左金吾将軍家の若公、御所に於いて俄に以て落餝せしめ給う。これ尼御
  台所の御計らいなり。
 

11月13日 天晴 [明月記]
  この夕より甲兵馳奔す。明日南京の衆徒必定発向すと。彼是水火の儀、蟄居是非に迷
  う。
 

11月14日 天晴 [明月記]
  南の衆徒今日進発す。泉木津に在り。夜前山門の張本四人を召し検非違使に給う。山
  僧の欝憤の思い更に散らず。
 

11月15日 天晴 [明月記]
  巷説に云く、南京衆徒の先陣すでに宇治に来たる。河を隔て官軍と陣を張る。且つは
  粮米を積み置く。大軍後を見ず。南京と相連なると。
 

11月17日 暁甚雨、但し明月、朝後雨休む [明月記]
  巷説に云く、衆徒すでに宇治に群集す。或いは云く、小倉方を焼くと。官軍橋を引き
  相距てると。
 

11月19日 夜雨晴 [明月記]
  昨日按察御使いとして南京に向かう。帰路木津に於いてまた問答す。また宇治に於い
  て問答す。衆徒その面を見ず。偏に戎服介冑の輩なり。覆面にて両眼を出す。怖畏虎
  口に入るが如し。勅定の趣を含み、適々承伏の気有り。毎年律師を任じ給い、天台座
  主を改補すべしと。前の大僧正荒々また還着すと。昆陽の大軍忽ち退帰す。朝家の為
  尤も善政と謂うべし。
 

11月23日 己丑 天霽
  京極侍従三位(定家卿)、相伝の私本万葉集一部を将軍家に献ず。これ二條中将(雅
  経)を以て尋ねらるるに依ってなり。これに就いて去る七日羽林これを請け取り送り
  進す。今日到着するの間、廣元朝臣御所に持参す。御賞翫他に無し。重宝何物かこれ
  に過ぎんやの由仰せ有りと。彼の卿家領伊勢の国小阿射賀御厨の地頭渋谷左衛門の尉、
  非法の新儀を致すの間、領家の所務無きが如し。三品年来愁訴を為すと雖も、本より
  世事に染まらざるに依って、この事に奔営せず。思って旬月を渉るばかりなり。而る
  に去る比廣元朝臣の消息を以て愁訴有らんかの由、触れ遣わさるるの時に至り、土民
  の歎を休めんが為、始めて発言するの間、その沙汰有り。件の非儀を停止せらると。
  これ併しながら歌道を賞せらるるが故なり。
 

11月24日 庚寅 天晴
  辰の刻、将軍家永福寺に御参り。これ恒例の一切経会たるなり。
 

11月30日 丙申 天晴
  六波羅の飛脚参り、申して云く、南都騒動の事、官軍を遣わし防禦せらるの間、去る
  二十日衆徒宇治より無為退出すと。関東の御使い大友左衛門の尉能直今に在京すと。