1213年 (建暦3年、12月6日改元 建保元年 癸酉)
 
 

12月1日 丁酉 天晴
  戌の刻、御所の近辺焼亡す。武州・前の大膳大夫・筑後の守知家入道等が宿廬災す。
 

12月2日 天晴 [明月記]
  (前略)鞠紫革の襪を聴さる。是殊なる事と。聴さるる人、宗長朝臣・雅経朝臣・忠
  信卿・有雅卿なり。若しくは魔性の隙を伺い、近臣に依ってこの恐れ有るか。蹴鞠の
  間、骨髄疲れて筋力の堪えざるか。これ皆向後を恐るべし。
 

12月3日 己亥
  将軍家寿福寺に御参り。仏事を修せしめ給う。これ左衛門の尉義盛以下亡卒得脱の為
  と。
 

12月4日 庚子 天晴
  御持仏堂に於いて薬師法を修せらる。隆宣法橋これを始行すと。
 

12月6日 [皇帝紀抄]
  改元の事有り。建暦を改め建保と為す。
 

12月7日 癸卯
  鷹狩りを停止すべきの旨、諸国の守護人等に仰せらる。事度々厳制有りと雖も、放逸
  の輩、ややもすれば違犯有るの旨聞こし食し及ぶに依って此の如しと。但し所処の神
  社の貢税の事に於いては、制の限りに非ずと。図書の允清定これを奉行す。

[明月記]
  尋ね聞く。改元建保と。
 

12月10日 丙午 天晴
  薬師法結願す。御布施、被物二重・砂金一裹・野劔一腰なり。左近大夫朝親・近江の
  前司仲兼・橘三蔵人惟廣等これを取る。
 

12月11日 丁未 陰
  午の刻大地震。
 

12月13日 己酉 天霽
  丑の刻地震。
 

12月15日 辛亥
  改元の詔書到来す。去る六日、建暦三年を改め建保元年と為す。即ち廣元朝臣、遠江
  の守親廣をして御所に進せしむと。
 

12月18日 甲辰 天晴
  今日、修理の亮(泰時)、伊豆の国阿多美郷の地頭職を以て、走湯山権現に奉寄せし
  め給う。これ元は件の神領なり。而るに頃年仁田の四郎忠常これを顛倒せしむ。彼の
  滅亡の後、匠作これを拝領し給いをはんぬ。根本の由緒、今朝始めてこれを聞く。即
  ち放生の地として、永く寄進せらるる所なり。
 

12月19日 乙巳 雪降る
  将軍家山家の景趣を御覧ぜんが為、民部大夫行光が宅に入御す。この次いでを以て行
  光盃酒を献る。山城判官行村等群参す。和歌・管弦等の御遊宴有り。夜に入り還御す。
  行光龍蹄(黒)を進すと。

[明月記]
  南京の衆徒また蜂起す。山門の国務を訴えるか。
 

12月20日 丙午
  今朝、将軍家去夕行光が進す所の馬を御覧ず。而るに紙をその立髪に結い付く。これ
  を召し寄せ披覧するの処、
   この雪をわけてこヽろの君にあれは主しるこまのためしをそひく
  此の如くこれを載す。将軍家数反御詠吟を以て、行光が所為優美の由、再三御感に及
  ぶ。賢慮に相叶うが故なり。即ち自筆を染め御返歌を遣わさる。好士を撰び、内藤馬
  の允知親を以て御使いと為す。
   主しれとひきける駒の雪をわけはかしこきあとにかへれとそおもふ
 

12月21日 辛未
  明春正月椀飯の事、殊に結構せしむべきの旨、雑掌等に仰せ付けらる。近年度々麁品
  の咎有りと雖も、猶刷うの分無し。仍って別してこの沙汰に及ぶ。行光これを奉行す。
 

12月28日 甲寅 天霽
  今日夜に入り、相州鍾愛の若公(九才、当腹)御所に於いて元服の儀、三浦左衛門の
  尉義村加冠たるなり。四郎政村と号すと。
 

12月29日 乙卯
  将軍家御自筆を染め、日来圓覚経を書写せしめ給う。今日供養の儀有り。導師は荘厳
  房行勇、請僧三口。御布施、被物二重・裹物二つ・五衣一領。請僧分、被物一重・裹
  物一つ。朝親・仲兼これを取る。
 

12月30日 丙辰
  昨日供養の経巻を以て、左衛門の尉義村に仰せ、三浦に遣わし海底に沈めらると。御
  夢想の告げ有るに依ってなり。