1217年 (建保5年 丁丑)
 
 

4月3日 庚戌 霽
  将軍家鶴岡八幡宮に御参り。これ恒例の神事たるに依ってなり。
 

4月5日 壬子 陰
  夜に入り小町大路騒動す。これ式部大夫の家人成田の次郎と奥州の住人深沼の五郎と
  闘諍し、互いに刃傷に及ぶに依ってなり。
 

4月17日 甲子 晴
  宋人和卿唐船を造畢す。今日数百輩の疋夫を諸御家人に召し、彼の船を由比浦に浮か
  べんと擬す。即ち御出有り。右京兆監臨し給う。信濃の守行光今日の行事たり。和卿
  の訓説に随い、諸人筋力を尽くしてこれを曳く。午の刻より申の斜めに至る。然れど
  もこの所の躰たらく、唐船出入すべきの海浦に非ざるの間、浮かべ出すこと能わず。
  仍って還御す。彼の船は徒に砂頭に朽ち損ずと。