1217年 (建保5年 丁丑)
 
 

5月11日 戊子 晴
  申の刻、鶴岡八幡宮の別当三位僧都定暁、腫物を煩い入滅す。
 

5月12日 己丑 晴
  寿福寺の長老荘厳房律師行勇御所に参る。これ所帯相論の輩の事、引汲し申すが故な
  り。而るにこの儀すでに数度に及ぶの間、将軍家御気色有り。廣元朝臣を以て仰せ出
  されて云く、三宝の御帰依甚だ重しと雖も、政道の事頻りに以てこれを執り申さる。
  曽って僧徒の行儀に非ず。早くこれを停止し、修練を専らせらるべしと。行勇心中に
  これを恨み、泣く泣く本寺に帰り門を閉ざすと。
 

5月15日 壬辰 陰
  将軍家寿福寺に入御す。李部・武州等御共に候ぜらる。これ長老欝陶の事宥め仰せら
  るるに依ってなり。行勇殊に恐れ申す。暫く禅室に御坐し、仏法の御談話に及ぶと。
 

5月20日 丁酉
  右衛門の尉紀の康綱年来その功有りと雖も、未だ新恩に浴せず。今日一首の和歌を進
  し、身上の事を愁い申す。而るに備中の国村社郷の内小埋社町は、八代相伝の由言上
  するの間、不輸の地として領掌すべきの旨仰せ下さる。陸奥の守廣元朝臣これを奉行
  す。これ併しながら詠歌に感ぜしめ給うが故なり。
 

5月25日 壬寅
  御持仏堂に於いて文殊像を供養せらる。導師は寿福寺長老。而るに将軍年来御所持の
  牛玉を以て御布施と為す。廣元朝臣然るべからざるの由傾け申すと雖も、御許容に能
  わずと。
 

5月27日 甲辰
  去る元年五月亡卒する義盛以下の所領の神社・仏寺の事、本主の例に任せ興行せしむ
  べきの旨、今日彼の跡拝領の輩に仰せらると。
 

5月29日 丙午
  御台所寿福寺に御参り。