1218年 (建保6年 戊寅)
 
 

1月12日 甲申 晴
  後藤大夫判官基清が飛脚京都より参着す。申して云く、去る三日白河の辺に謀叛の者
  有り。基清即ち行き向かい追捕するの処、郎従等多く以て疵を被る。然れども遂に件
  の賊主を梟す。これ伊勢平氏の余流掃部権の助正重と。驕奢有るに依って烏合を申さ
  んと擬する者なり。
 

1月13日 乙酉 霽
  将軍家鶴岡八幡宮に御参り。

[明月記]
  権大納言正二位源朝臣実朝
     建保六年正月十三日
 

1月15日 丁亥 晴
  政所に於いて、尼御台所南山御参詣の事その沙汰有り。相州扈従せらるべしと。
 

1月17日 己丑 晴
  将軍家讃岐の国守を挙し申さしめ給う。早く送達すべきの由、今日駿河の守季時(京
  都守護)の許に仰せ遣わさる。これ式部大夫泰時朝臣を以て件の国守に任ぜらるべき
  の由、その沙汰有り。勅許の後任人を申さるべしと。
 

1月21日 癸巳 雨降る
  京都の使者参着す。去る十三日、将軍家権大納言を任ぜしめ給うの由これを申す。