1218年 (建保6年 戊寅)
 
 

*[愚管抄]
  仲章と云者、使してをりのぼりしつつ、実朝先はこれよりさきに、中納言中将申てな
  りぬ。さて大将にならんとて、左大臣の大将を兵仗にかへて、九條殿の例なればとて、
  いそぎあげて左大将の大将になされぬ。
 

3月16日 丁亥 晴
  波多野の次郎朝定京都より帰着す。去る六日の除書を持参す。将軍家左近大将を兼任
  せしめ給う。始め御使い入洛の時、故右大将軍の例に任せ、右に任ぜらるべし。仍っ
  て右幕下辞し申されんと擬するの刻、朝定上洛するの間、また先篇を改めその沙汰有
  り。御使い博陸の御亭に往反すること数箇度と。件の聞書、安藝権の守範高参進し御
  前に置かる。
    侍従籐の範有     兵部権大輔籐の頼隆   勘解由次官平の範輔
    出羽城介籐の景盛   伊豫の守籐の實雅   (兼)左近大将源の実朝
    少将籐の盛兼     右近少将籐の能継    左衛門権の佐籐の経兼
    雑任これを略す(三十余人か)。
    従三位籐の資家    従四位下平の宗宣
  先ず籐右衛門の尉景盛を御前に召し、聞書(範高御前に於いて更にこれを書写す)を
  賜う。これ出羽権の介に任ずるが故なり。景盛恐悦顔色に彰わる。当職は、醍醐天皇
  の御宇昌泰二年以来中絶す。而るに後冷泉院の御時に至り、永承五年九月日平の繁盛
  始めてこれに任ず。その後また補任の人無きの処、今絶えたるを興さるるの條、尤も
  珍重と謂うべきか。また去る月十八日、源文章博士仲章朝臣持読昇殿の事勅許、翌日
  十九日宣下。これ関東の御挙に依ると雖も、希代の朝恩たるか。次いで朝定を簾下に
  召し御劔を賜う。今度の使節の忠を賞せらるるが故なり。
 

3月18日 己丑 晴
  権の少外記中原の重継勅使として下着す。これ去る六日、将軍家左馬寮御監たるべき
  の旨宣下せらる。仍って件の宣旨の状を持参する所なり。先ず鶴岡宮の廻廊に着す。
  次いで前の大膳大夫入道の沙汰として、旅亭を点じ勅使を請ず。

**増鏡
  同じ六年権大納言になりて、左大将をかねたり。左馬寮をさへぞつけられける。
 

3月23日 甲午 晴
  今日良辰たるに依って勅使重継御所に参る。日次宜しからざるの間、日来謁せしめ給
  わず。逗留の程、御家人等の役として、毎日勅使に経営す。午の刻重継(縫腋の袍を
  着す)西廊に参入す。右京兆(布衣)これを申次がる。小時将軍家(御直衣)出御す。
  車寄の間の簾を上げ御対面有り。重継膝行し、宣旨の状(大外記師重の奉り)を笏上
  に置き献ぜしむ。これを請け入御するの後、重継を寝殿東面に招き盃酒を賜り、馬二
  疋(一疋は鞍を置く)を引かる。佐々木太郎左衛門の尉高重・小野寺左衛門の尉秀道
  等これを引く。庭上に下り立ちこれを給わり、一拝して退出す。今日、常陸の国志筑
  郷内願成寺の住僧等参訴の事有り。検注使新儀を以て寺領に入り勘すべきの由張行す
  と。仍って停止すべきの趣、右京兆これを下知し給うと。
 

3月24日 乙未 晴
  巳の刻に重継帰洛す。将軍家鞍馬三疋・砂金百両を遣わさる。三浦右衛門の尉胤義御
  使いたり。勅使進発せしむの時、李部並びに大夫判官行村・小山左衛門の尉朝政仰せ
  を奉り、これを送らんが為固瀬の駅に到る。重継前途を進まず。頻りに以て敬屈する
  の間、各々還り参る。また李部讃州史に任ぜらるべき事仰せ下さるるの処、過分と称
  し固く辞し申さる。仍ってこの趣を奏すべきの由、重継に仰せらると。