1218年 (建保6年 戊寅)
 
 

4月7日 戊午 晴
  千葉の介成胤病脳太だ辛苦し、心神度を失うと。将軍家これを訪わしめ給うに依って、
  御使い東の平太所重胤を遣わさる。子孫の事殊に憐愍を加えらるべきの由、慇懃に仰
  せ下さる。これ忠節を賞せらるるが故か。
 

4月10日 辛亥 晴
  午の刻、千葉の介平の成胤卒す(千葉の介胤正男なり)。
 

4月14日 [北條九代記]
  右大将家後室、遠江の守時政女従三位に叙せらる。
 

4月15日 [愚管抄]
  卿二位たびたびゆきてやうやうに云つつ、尼なる者をはじめて三位せさせて、四月十
  五日に下りにき。二位になして鎌倉の二位殿とて有りけり。はじめたる例かなと人云
  なり。

**院の宮御下向候て、それを将軍に成しまいらせて、この事ハ熊野詣の料に上りたるけ
  るに、実朝がありし時、子もまうけぬにさや有べきなど、卿二位物語したりと聞へし
  名残にや。
 

4月23日 [皇帝紀抄]
  焼亡有り。百余町に及ぶ。
 

4月29日 庚午 晴
  申の刻尼御台所御還向。南山御奉幣無為。御在京の間珍事等有り。去る四日太秦殿に
  御幸。仍って御車を三條河原の辺に立て見物せしめ給う。茲に因って、御幸の儀殊に
  これを刷わると。同十四日、従三位に叙せしむべきの由宣下、上卿三條中納言(参陣)。
  則ち清範朝臣を以て、件の位記を三品の御亭に下さる。この事儀定めて細碎に及ぶか。
  出家の人叙位の事、道鏡の外これ無し。女叙位は、准后に於いてはこの例有り。所謂
  安徳天皇御外祖母なり。また知足院殿御母儀准后の事、適々出家以後なり。仍って彼
  の準拠を以てこれに叙せらると。同十五日、仙洞より御対面有るべきの由仰せ下さる
  と雖も、辺鄙の老尼龍顔に咫尺することその益無し。然るべからざるの旨これを申さ
  れ、諸寺礼仏の志を抛ち、即時に下向し給うと。