5月4日 甲戌 陰
相州京都より下着し給う。三品御上洛の時扈従せらる。而るに三品去る月十五日出京
し給うと雖も、仙洞の御鞠に参らんが為逗留せらると。
5月5日 乙亥 晴
相州召しに依って御所に参らる。洛中の事尋ね仰せらるるの処、相州申されて云く、
先ず去る月八日(己酉)梅宮祭の時、御鞠拝見の志有るの由内々申すの間、彼の宮に
臨幸す。右大将(半蔀車、随臣上臈を具す)顕官の威儀を刷わる。これ皆下官見物の
故なりと。同十四日御鞠の庭に初参す。布衣(顕文紗の狩衣、白き指貫)を着し、愚
息次郎時村(二藍布の狩衣、白き狩袴)を伴う。公卿簀子に候す。上皇御簾を上げこ
れを叡覧す。同十五日・十六日以後連々参入す。当道頗るその骨を得るの由、叡感数
度に及ぶ。院中出仕の案内を知らざるの旨示し合わすの間、尾張中将清親(坊門内府
甥)毎時扶持す。生涯爭かその芳志を忘れんやと。
**道家公鞠日記
[最勝寺]関東武士見物かの旨、御幸褻たると雖も、聊か刷わるか。
5月9日 己卯 霽
女房三條の局(督の典侍女)京都より帰参す。これ亡父越後法橋範智の粟田口の遺跡
に一堂を造る。この事に依って上洛す。彼の堂去る月八日に供養を遂ぐ。これより先
三箇日の内に尊長法印俄に築垣を築く。花山院右府被物十重を送らる。布施取公卿は
前の中納言範朝・宰相中将経通・刑部卿宗長・三位兼季と。
5月25日 乙未 晴
右少将能継朝臣参着す。