6月8日 戊申 晴
戌の刻、東方に白虹を見る。但し片雲競い衆星希なり。夜半に及び雨降り、その変消
ゆると。
6月11日 辛亥 陰
卯の刻、西方に五色の虹を見る。上一重は黄、次いで五尺余り赤色を隔て、次いで青、
次いで紅梅なり。その中間また赤色甚だ廣厚して、その色天地に映ず。小時消ゆ。則
ち雨降る。
6月14日 甲申 霽
新蔵人時廣京都より参着す。去る月十七日蔵人に補す。同二十七日初参す。而るに将
軍家大将御慶賀御神拝の時、前駆を勤めんが為、二十八日に出京す。その役に従うの
後、また還参すべきの由奏聞すと。
6月17日 丁巳 晴
伊豫少将實雅・花山院侍従能氏等京都より下向す(去る十二日進発す)。これ将軍家
御神拝扈従の為と。また仲章朝臣参向す。
6月20日 庚申 晴
内蔵の頭忠綱朝臣勅使として下向す(去る五日進発す)。申の斜めに中條右衛門の尉
家長が若宮大路の家に着す。先ず御車二両、已下御拝賀料の調度(皆嚢にこれを籠め
る)等これを舁けしむ。疋夫数十人歩列す。次いで彼の朝臣騎馬、侍十人を具す。惣
て後騎四十余人か。また一條中将信能朝臣下着す。
6月21日 辛酉 晴
午の刻、忠綱朝臣件の調度等を御所に運ばしむ。御車二両(檳椰・半蔀)・九錫の彫
弓・御装束・御随臣の装束・移鞍等なり。これ皆仙洞より調え下さると。仲章朝臣奉
行としてこれを請け取る。小時将軍家忠綱朝臣を簾中に召し御対面有り。慇懃の朝恩
殊に賀し申さると。数刻の後退出す。晩に及び池の前の兵衛の佐為盛朝臣・右馬権の
頭頼茂朝臣等また下着す。凡そこの御拝賀の事に依って、参向の人すでに以て数輩、
皆御家人等に仰せ毎日経営す。贈物花美を尽くす。これ併しながら庶民の費えに非ざ
ると云うこと莫し。
6月27日 丁卯 晴陰
将軍家大将に任じ御うの間、御拝賀の為鶴岡宮に参り給う。早旦行村の奉りとして、
御拝賀有るべきの由を下向の雲客等に触れ申す。申の斜めにその儀有り。先ず南面に
出御す。文章博士仲章朝臣(束帯)御簾を上ぐ。陰陽少允親職(束帯)車寄の間に参
り反閇に候す。陰陽権の助忠尚(束帯)廊根の妻戸に入り御祓いを勤む。伊豫少将實
雅御車を寄す。南門を出御し西行す。
行列
居飼四人(二行)
御厩舎人四人(二行)
一員(一行)
府生狛の盛光 將曹菅野の景盛 将監中原の成能
殿上人(一行)
新蔵人時廣 一條大夫頼氏 花山院侍従能氏 一條少将能継
伊豫少将實雅 前の因幡の守師憲 右馬権の頭頼茂朝臣
前の左兵衛の佐為盛朝臣 文章博士仲章朝臣 一條中将信能朝臣
前駆笠持ち(十六人)
前駆(二行)
左近蔵人仲能 左近蔵人親實 左近大夫朝親 左近大夫季光
駿河の守季時 相模権の守経定 蔵人大夫国忠 前の武蔵の守義氏
右馬の助範俊 相模の守時房 蔵人大夫有俊 右馬の助宗保
前の筑後の守頼時 民部権の少輔親廣 右京権大夫義時朝臣 前の駿河守惟義朝臣
番長 下毛野の敦秀(郎等二人前に在り)
御車(檳榔、車副え二人、牛童一人、榻持ち)
下臈随臣(各々相並ぶ)
秦の頼澄 秦の清種 下毛野の敦家 播磨の貞直 下毛野の敦継
雑色二十人
御笠
雨皮・張筵持ち(各々一人)
随兵(二行、左右共年臈次第)
大須賀の太郎道信 長江の四郎明義
伊豆左衛門の尉頼定 三浦左衛門の尉義村
式部大夫泰時 筑後左衛門の尉朝重
秋田城の介景盛 土岐左衛門の尉光行
検非違使
江判官能範(布衣・冠・革緒・細尻鞘の太刀、郎等三人・雑色四人・調度懸け一人
・放免四人)
御調度懸け
佐々木彌太郎左衛門の尉高重
衛府(二行、左右共年臈次第)
大泉左衛門の尉氏平 関左衛門の尉政綱
小野寺左衛門の尉秀道 嶋津左衛門の尉忠久
平九郎右衛門の尉胤義 足立左衛門の尉元春
天野左衛門の尉政景 伊賀左衛門の尉光季
後藤左衛門の尉基綱 加藤左衛門の尉景長
伊東左衛門の尉祐時 武藤左衛門の尉頼茂
中條右衛門の尉家長 佐貫右衛門の尉廣綱
江右衛門の尉範親 大井紀右衛門の尉實平
塩谷兵衛の尉朝業 若狭兵衛の尉忠季
東兵衛の尉重胤(最末一人供奉す)
次いで宮寺の橋の砌に到り御駕を税く。仲章朝臣参進し御簾を上ぐ。頼茂朝臣御榻を
献ず。一條少将能継御沓を役す。伊豫少将實雅御裾を取る。大夫判官行村(束帯)・
佐々木判官廣綱(布衣・冠)等楼門の東西の脇(相対し床子に坐す)に候す。両人の
随兵各々十人傍らに群居す。禅定三品並びに御台所御車を橋の西に立て、見物せしめ
御う。信濃の守行光・右衛門大夫光員・安藝権の守範高並びに衛府十人(各々布衣下
括り)轅の左右に候す。この外御家人宮中及び路次を警固す。右京兆の室家以下女房
等、桟敷を馬場の辺に構う。凡そ見物の輩堵の如し。上下宮の御奉幣例の如し。秉燭
の際還御す。
[6月28日 戊戌
戌の刻、流星乾より巽に亘る。大きさ満月の如し。]