1218年 (建保6年 戊寅)
 
 

7月1日 庚子 晴
  勅使忠綱朝臣帰洛す。将軍家より鞍馬三疋以下の餞物を給う。
 

7月5日 甲戌 霽
  下向の雲客前の兵衛の佐為盛・花山院侍従能氏等帰洛す。
 

7月8日 丁丑 晴
  左大将家御直衣始めなり。仍って鶴岡宮に御参り。午の刻出御す。前駆並びに随兵已
  下、去る月二十七日の供奉人を用いらる。但し数輩帰洛す。また右京兆は路次に供奉
  せられず、宮寺に参会し給う。随兵の中、大須賀の太郎道信病痾に依って障りを申す
  の間、民部の丞廣綱を召しその替わりと為す。先度は道信と長江の四郎明義と行列し、
  伊豆左衛門の尉頼定と三浦左衛門の尉義村と行列す。今度は頼定と廣綱となり。仍っ
  て義村左に候す。明義は右に列すべきの由定めらるるの処、義村申して云く、明義は
  高年たり。右に候し難しと。明義申して云く、義村は有官の上、三浦の介義澄の遺跡
  を継ぐ。尤も左に列すべきなりと。この礼節刻を移す。頗る御出の煩いたるの由、大
  夫判官行村御前に参り申す。仰せに曰く、各々穏便を存ずること、尤も感に絶えたり。
  今日御出の儀、殊に執り思し食さる所なり。而るに義村は後栄有るべし。明義は前途
  無きものか。然からば左に候せしめ、子孫の眉目に備うべしてえり。行村御気色の趣
  を相触れるの間、重ねて子細を申すこと能わず。長江左と為る。
  行列
  前駆(二行)
   左近蔵人仲能           左近蔵人親實
   左近大夫季光           左近大夫朝親
   前の武蔵の守義氏         右馬の助範俊
   相模の守時房           蔵人大夫有俊
   前の筑後の守頼時         民部少輔親廣
   前の駿河の守惟義朝臣(最末一人供奉す)
  殿上人(一行)
   新蔵人時廣       文章博士仲章     一條中将親能朝臣
  御車(御随身、御車副え等去る月に同じ)
  随兵(二行)
    長江四郎明義          三浦左衛門の尉義村
    伊豆左衛門の尉頼定       浅沼民部の丞光綱
    式部大夫泰時          筑後左衛門の尉朝重
    秋田城の介景盛         土岐左衛門の尉光行
 

7月9日 戊寅 晴
  未明に右京兆大倉郷に渡御す。南の山際に於いて便宜の地を卜す。一堂を建立し、薬
  師像を安置せらるべしと。これ昨将軍家鶴岡に御出の時参会せらる。晩に及び亭に還
  御し休息せしめ給う。御夢中に薬師十二神將の内戌神御枕上に来たりて曰く、今年の
  神拝無事なり。明年拝賀の日、供奉せしめ給うこと莫れてえり。御夢覚めての後、尤
  も奇異を為す。且つはその意を得ずと。而るに御壮年の当初より、専ら二六の誓願を
  恃み給うの処、今霊夢の告げる所、信仰せざるべからざるの間、日次の沙汰に及ばず、
  梵宇を建立せらるべきの由仰せらる。爰に相州・李部等この事を甘心し給わず。各々
  諫め申されて云く、今年御神拝の事に依って、雲客已下参向す。その間御家人と云い
  土民等と云い、多く以て産財を費やし、愁歎未だ休まざるの処、また営作を相続けら
  る。撫民の儀に協い難きかと。右京兆、これ一身安全の宿願なり。更に百姓の煩いを
  仮るべからず。矧や八日戌の刻に当たり、医王善逝の眷属戌神の告げ有り。何ぞ思い
  立つ所を黙止せんかの由仰せらる。仍って匠等を召し指図を下さるるなり。

**二階堂村覺園寺[相模国風土記稿]
  古昔大倉薬師堂或は大倉新御堂と称せり。故に今も此地の小名を薬師堂谷と称呼す。
  此堂は建保六年七月、北條義時霊夢に因て創立ありし所なり。
 

7月22日 辛卯
  侍所司五人を定めらる。所謂式部大夫泰時朝臣を別当と為す。山城大夫判官行村・三
  浦左衛門の尉義村等を相具し、御家人の事を奉行すべし。次いで江判官能範は、御出
  以下御所中の雑事を申し沙汰すべし。次いで伊賀次郎兵衛の尉光宗は、御家人供奉の
  所役已下の事を催促すべしと。武州仰せを奉り、各々触れ廻さると。