1218年 (建保6年 戊寅)
 
 

12月2日 庚子 晴
  右京兆霊夢に依って草創せしめ給う所の大倉新御堂に、薬師如来像(雲慶これを造り
  奉る)を安置し、今日供養を遂げらる。導師は荘厳房律師行勇、呪願は圓如房阿闍梨
  遍曜、堂達は頓覺房良喜(若宮供僧)なり。施主並びに室家等簾中に坐す。相州・式
  部大夫・陸奥の次郎朝時、正面の広廂に坐せらる。信濃の守行光・大夫判官行村・大
  夫判官景廉已下御家人結縁の為群参す。源筑後の前司頼時・美作左近大夫朝親・三條
  左近蔵人親實・伊賀左近蔵人仲能・安藝権の守範高等布施取りの為、各々堂の南の仮
  屋に参候す。戌の刻事終わり、導師以下御布施を引かる。

[皇帝紀抄]
  右大臣藤原道家左大臣に転ず。
  源実朝右大臣に転ず。大将元の如し。
 

*[愚管抄]
  やがて大臣にならんと申て、ならんに取ては内大臣は例わろし。重盛、宗盛など云も
  皆内大臣なりければなど云不思議ども聞えし程に、左大臣闕ありければ、内大臣実朝
  思のごとく右大臣になされにけり。
 

12月5日 癸卯 霽
  鶴岡の別当宮寺に参籠す。更に退出せられず。数箇の祈請を致さる。都て以て除髪の
  儀無し。人これを怪しむ。また白河左衛門の尉義典を以て、太神宮に奉幣せんが為進
  発せしむ。その外諸社に使節を立てらるるの由、今日御所中に披露すと。
 

12月20日 戊午 霽
  去る二日将軍家右大臣に任ぜしめ給う。仍って今日政所始め有り。右京兆並びに当所
  執事信濃の守行光及び家司文章博士仲章朝臣・右馬権の頭頼茂朝臣・武蔵の守親廣・
  相州・伊豆左衛門の尉頼定・図書の允清定等、布衣を着し列座す。清定執筆として吉
  書書く。右京兆座を起ち、吉書を覧せんが為御所に参り給う。路次行光これを棒持し、
  京兆の御後に従う。将軍家故に以て南面階の間に出御しこれを覧玉う(京兆彼の吉書
  を御前に持参し給う)。京兆また政所に帰らしめ給い、椀飯を行わる。その後行光御
  馬・御劔等を京兆に進す。
 

12月21日 己未 晴
  将軍家大臣拝賀の為、明年正月鶴岡宮に御参有るべきに依って、御装束・御車以下の
  調度等、また仙洞よりこれを下され、今日到着す。また扈従の上達部坊門亜相以下参
  向せらるべしと。
 

12月26日 甲子 霽
  大夫判官行村の奉行として、御拝賀供奉の随兵以下の事その沙汰有り。兼ねて治定の
  人数の中、小山左衛門の尉朝政・結城左衛門の尉朝光等服暇有るに依って、山城左衛
  門の尉基行・荻野の次郎景員等を召さる。彼の兄弟の替わりたるなり。右大将家の御
  時定め仰せられて云く、随兵は、三徳を兼備する者必ずその役に候すべし。所謂譜第
  の勇士・弓馬の達者・容儀の神妙の者なり。また譜第と雖も、その芸に疎き者に於い
  ては、警衛の恃み無し。能く用意有るべしと。而るに景員は、去る正治二年正月、父
  梶原平次左衛門の尉景高駿河の国高橋の辺に於いて自殺するの後、頗る時を失うの士
  たりと雖も、件等の徳を相兼ねるが故、これを召し出さる。面目に非ずや。次いで基
  行は、武士に非ずと雖も、父行村すでに廷尉の職に居すの上、容顔美麗にして弓箭に
  達す。また当時の近習たるに依って、内々所望を企てて云く、将軍家の御家人に列し
  ながら、偏に号を文士に定めらるるの間、武者に並ぶの日、時に於いては恥辱に逢う
  べきの事等有り。この御拝賀は関東無双の晴儀、殆ど千載一遇と謂うべきか。今度随
  兵に加えらるれば、子孫永く武名を相続ぐの條、本懐至極なりと。仍って恩許、異儀
  に及ばずと。