1219年 (建保7年、4月12日改元 承久元年 己卯)
 
 

1月7日 甲戌
  戌の刻、御所の近辺、前の大膳大夫入道覺阿亭已下四十余宇焼亡す。
 

1月8日 乙亥
  心経会、将軍家南面に出御す。その儀例の如し。
 

1月15日 丙子
  巳の刻大倉の辺焼亡す。相州室の宿所以下数十宇災す。
 

1月23日 甲申 晩頭雪降る、夜に入り尺に盈つ
  今日坊門大納言京都より下着す。右京兆の大倉の御亭を以て、彼の旅館に点ぜらると。
  この外卿相・雲客多く以て下向す。これ将軍家大臣御拝賀扈従の為なり。
 

1月24日 乙酉 白雪山に満ち地に積もる
  今日坊門亜相営中に渡御す。御台所御対面。御前に於いて盃酒の儀有り。若少の女房
  十人(各々花を折る)陪膳の役送に候す。縡卒爾に起こると雖も、遊興永日を滅す。
  秉燭の期に及び帰らしめ給う。将軍家御馬(鴾毛、鶏冠木と号す。鞍を置く)を献ぜ
  らる。秋田城の介景盛これを引く。
 

1月25日 丙戌
  右馬権の頭頼茂朝臣鶴岡宮に参籠す。去る夜拝殿に跪き法施を奉るの際、一瞬眠る中
  鳩一羽典厩の前に居す。小童一人その傍らに在り。小時童杖を取り彼の鳩を打ち殺す。
  次いで典厩の狩衣の袖を打つ。奇異の思いを成し曙るの処、今朝廟庭に死鳩有り。見
  る人これを怪しむ。頼茂朝臣事の由を申すに依って御占い有り。泰貞・宣賢等不快の
  趣を申すと。


1月27日 戊子 霽、夜に入り雪降る。積もること二尺余り。
  今日将軍家右大臣拝賀の為、鶴岡八幡宮に御参り。酉の刻御出で。
  行列
  先ず居飼四人(二行、退紅・手下を縫い越す)
  次いで舎人四人(二行、柳の上下・平礼)
  次いで一員(二行)
    將曹菅野の景盛  府生狛の盛光  将監中原の成能(已上束帯)
  次いで殿上人(二行)
    一條侍従能氏          籐兵衛の佐頼経
    伊豫少将實雅          右馬権の頭頼茂朝臣
    中宮権の亮信能朝臣(子随身四人)一條大夫頼氏
    一條少将能継          前の因幡の守師憲朝臣
    伊賀少将隆経朝臣        文章博士仲章朝臣
  次いで前駆笠持
  次いで前駆(二行)
    籐の勾當頼隆          平の勾當時盛
    前の駿河の守季時        左近大夫朝親
    相模権の守経定         蔵人大夫以邦
    右馬の助行光          蔵人大夫邦忠
    右衛門大夫時廣         前の伯耆の守親時
    前の武蔵の守義氏        相模の守時房
    蔵人大夫重綱          左馬権の助範俊
    右馬権の助宗保         蔵人大夫有俊
    前の筑後の守頼時        武蔵の守親廣
    修理権大夫惟義朝臣       右京権大夫義時朝臣
  次いで官人
    秦の兼峯
    番長下毛野の敦秀(各々白狩袴・青一の腫巾・狩胡箙)
  次いで御車(檳榔) 車副四人(平礼・白張)、牛童一人
  次いで随兵(二行)
    小笠原の次郎長清(甲小桜威)  武田の五郎信光(甲黒糸威)
    伊豆左衛門の尉頼定(甲萌黄威) 隠岐左衛門の尉基行(甲紅威)
    大須賀の太郎道信(甲藤威)   式部大夫泰時(甲小桜)
    秋田城の介景盛(甲黒糸威)   三浦の小太郎朝村(甲萌黄)
    河越の次郎重時(甲紅)     荻野の次郎景員(甲藤威)
     各々冑持一人、張替持一人、傍路前行す。但し景盛は張替を持たしめず。
  次いで雑色二十人(皆平礼)
  次いで検非違使
    大夫判官景廉(束帯・平塵蒔の太刀。舎人一人、郎等四人。調度懸・小舎人童各
           々一人。看督長二人。火長二人。雑色六人。放免五人)
  次いで御調度懸
    佐々木五郎左衛門の尉義清
  次いで下臈御随身
    秦の公氏      同兼村     播磨の貞文
    中臣の近任     下毛野の敦光  同敦氏
  次いで公卿
    新大納言忠信(前駆五人)    左衛門の督實氏(子随身四人)
    宰相中将国道(子随身四人)   八條三位光盛
    刑部卿三位宗長(各々乗車)
  次いで
    左衛門大夫光員         隠岐の守行村
    民部大夫廣綱          壱岐の守清重
    関左衛門の尉政綱        布施左衛門の尉康定
    小野寺左衛門の尉秀道      伊賀左衛門の尉光季
    天野左衛門の尉政景       武藤左衛門の尉頼茂
    伊東左衛門の尉祐時       足立左衛門の尉元春
    市河左衛門の尉祐光       宇佐美左衛門の尉祐政
    後藤左衛門の尉基綱       宗左衛門の尉孝親
    中條右衛門の尉家長       佐貫右衛門の尉廣綱
    伊達右衛門の尉為家       江右衛門の尉範親
    紀右衛門の尉實平        源四郎右衛門の尉季氏
    塩谷兵衛の尉朝業        宮内兵衛の尉公氏
    若狭兵衛の尉忠季        綱嶋兵衛の尉俊久
    東兵衛の尉重胤         土屋兵衛の尉宗長
    堺兵衛の尉常秀    狩野の七郎光廣(任右馬の允の除書、後日到着すと)
  路次の随兵一千騎なり。
  宮寺の楼門に入らしめ御うの時、右京兆俄に心神御違例の事有り。御劔を仲章朝臣に
  譲り退去し給う。神宮寺に於いて御解脱の後、小町の御亭に帰らしめ給う。夜陰に及
  び神拝の事終わる。漸く退出せしめ御うの処、当宮の別当阿闍梨公暁石階の際に窺い
  来たり、劔を取り丞相を侵し奉る。その後随兵等宮中(武田の五郎信光先登に進む)
  に馳せ駕すと雖も、讎敵を覓むに所無し。或る人の云く、上宮の砌に於いて、別当闍
  梨公暁父の敵を討つの由名謁らると。これに就いて各々件の雪下の本坊に襲い到る。
  彼の門弟の悪僧等その内に籠もり相戦うの処、長尾の新六定景と子息太郎景茂・同次
  郎胤景等先登を諍うと。勇士の戦場に赴くの法、人以て美談と為す。遂に悪僧敗北す。
  阿闍梨この所に坐し給わず。軍兵空しく退散す。諸人惘然の外他に無し。爰に阿闍梨
  彼の御首を持ち、後見備中阿闍梨の雪の下北谷の宅に向かわる。膳を羞むるの間、猶
  手を御首より放さずと。使者彌源太兵衛の尉(阿闍梨の乳母子)を義村に遣わさる。
  今将軍の闕有り。吾専ら東関の長に当たるなり。早く計議を廻らすべきの由示し合わ
  さる。これ義村の息男駒若丸門弟に列なるに依って、その好を恃まるるが故か。義村
  この事を聞き、先君の恩化を忘れざるの間、落涙数行し、更に言語に及ばず。小選、
  先ず蓬屋に光臨有るべし。且つは御迎えに兵士を献るべきの由これを申す。使者退去
  の後、義村使者を発し、件の趣を右京兆に告ぐ。京兆左右無く阿闍梨を誅し奉るべき
  の由下知し給うの間、一族等を招き聚め評定を凝らす。阿闍梨は太だ武勇に足り、直
  なる人に非ず。輙くこれを謀るべからず。頗る難儀たるの由各々相議すの処、義村勇
  敢の器を撰ばしめ、長尾の新六定景を討手に差す。定景(雪の下の合戦を遂げるの後、
  義村の宅に向かう)辞退すること能わず。座を起ち黒皮威の甲を着し、雑賀の次郎(西
  国の住人、強力の者なり)以下郎従五人を相具し、阿闍梨の在所備中阿闍梨の宅に赴
  くの刻、阿闍梨は義村の使い遅引するの間、鶴岡後面の峯を登り、義村の宅に到らん
  と擬す。仍って定景と途中に相逢う。雑賀の次郎忽ち阿闍梨を懐き、互いに雌雄を諍
  う処、定景太刀を取り、阿闍梨(素絹の衣・腹巻を着す。年二十と)の首を梟す。こ
  れ金吾将軍(頼家)の御息、母は賀茂の六郎重長の女(為朝の孫女なり)、公胤僧正
  の入室、貞暁僧都の受法の弟子なり。定景彼の首を持ち帰りをはんぬ。即ち義村京兆
  の御亭に持参す。亭主出居しその首を見らる。安東の次郎忠家指燭を取る。李部仰せ
  られて云く、正しく未だ阿闍梨の面を見奉らず。猶疑貽有りと。抑も今日の勝事、兼
  ねて変異を示す事一に非ず。所謂御出立の期に及び、前の大膳大夫入道参進し申して
  云く、覺阿成人の後、未だ涙の顔面に浮かぶを知らず。而るに今昵近し奉るの処落涙
  禁じ難し。これ直なる事に非ず。定めて子細有るべきか。東大寺供養の日、右大将軍
  御出の例に任せ、御束帯の下に腹巻を着けしめ給うべしと。仲章朝臣申して云く、大
  臣大将に昇るの人、未だその式有らずと。仍ってこれを止めらる。また公氏御鬢に候
  すの処、自ら御鬢一筋を抜き、記念と称しこれを賜う。次いで庭の梅を覧て、禁忌の
  和歌を詠み給う。
   出でいなば主なき宿と成ぬとも軒端の梅よ春をわするな
  次いで南門を御出の時、霊鳩頻りに鳴き囀る。車より下り給うの刻、雄劔を突き折ら
  ると。また今夜の中、阿闍梨の伴党を糺弾すべきの旨、二位家より仰せ下さる。信濃
  の国住人中野の太郎助能、少輔阿闍梨勝圓を生虜り、右京兆の御亭に具し参る。これ
  彼の受法の師たるなり。

[北條九代記]
  戌の時、右大臣家八幡宮に拝賀の為参詣するの処、若宮の別当公暁、形を女の姿に仮
  り右府を殺す。源文章博士仲章同じく誅せられをはんぬ。
 

1月28日
  今暁加藤判官次郎使節として上洛す。これ将軍家薨逝の由を申さるるに依ってなり。
  行程五箇日に定めらると。辰の刻、御台所落餝せしめ御う。荘厳房律師行勇御戒師た
  り。また武蔵の守親廣・左衛門大夫時廣・前の駿河の守季時・秋田城の介景盛・隠岐
  の守行村・大夫の尉景廉以下御家人百余輩、薨御の哀傷に堪えず、出家を遂げるなり。
  戌の刻、将軍家勝長寿院の傍らに葬り奉る。去る夜御首の在所を知らず。五體不具な
  り。その憚り有るべきに依って、昨日公氏に給う所の御鬢を以て、御頭に用い入棺し
  奉ると。

[愚管抄]
  拝賀とげんとて、京より公卿五人檳榔の車具しつつくだりあつまりけり。五人は、大
  納言忠信(内大臣信清息)、中納言實氏(春宮大夫公経息)、宰相中将国通(故泰通
  大納言息、朝政旧妻夫なり)、正三位光盛(頼盛大納言息)、刑部卿三位宗長(蹴鞠
  の料に本下向と)。ゆゆしくもてなしつつ拝賀とげける。夜に入奉幣終て、寳前の石
  橋を下りて、扈従の公卿列立したる前を楫して、下襲尻引て笏もちてゆきけるを、法
  師のけうさうときんと云物したる馳かかりて、下がさねの尻の上にのぼりて、かしら
  を一の刀には切てたふれければ、頸をうちをとして取てけり。をいざまに三四人をな
  じやうなる者の出きて、供の者をいちらして、この仲章が前駆して火ふりて有けるを
  義時ぞと思て、をなじく切ふせてころしてうせぬ。義時は太刀をもちてかたはらにあ
  りけるをさへ、中門にとどまれとてとどめてけり。大方用心せずさ云ばかりなし。皆
  くもの子をちらすが如くに、公卿も何もにげにけり。かしこく光盛はこれへはこで、
  鳥居にまうけて有ければ、わが毛車に乗て帰りにけり。皆散々にちりて鳥居の外なる
  数万の武士是をしらず。此法師は、頼家が子を其八幡の別当になして置たりけるが、
  日比思もちて、今日かかる本意を遂てけり。一の刀の時、親の敵はかくうつぞと云け
  る。公卿どもあざやかに皆聞けり。かくしちらして一の郎等とをぼしき義村三浦左衛
  門と云者のもとへ、われかくしつ、今は我こそは大将軍よ、それへゆかんと云たりけ
  れば、この由を義時に云て、やがて一人此実朝が頸を持たりけるにや。大雪にて雪の
  つもりたる中に、岡山の有けるをこえて、義むらがもとへゆきける道に人をやりて打
  てけり。とみにうたれずして切ちらし切ちらししてにげて、義村が家のはた板のもと
  まできて、はた板をこへていらんとしける所にて打とりてけり。実朝が頸は岡山の雪
  の中より求め出たりけり。同意したる者共をば皆うちてけり。また焼はらいてけり。
  其夜次の日郎従出家する者七八十人まで有りけり。さまあしかりけり。
 

1月29日 丙申
  鶴岡別当坊に候するの悪僧等これを糺弾せらる。宿老の供僧弁法橋定豪・安楽坊法橋
  重慶・頓覺坊良喜・花光坊尊念・南禅房良智等、御祈祷退転無きの由聞こし食さるる
  の間、子細に及ばざるか。
 

1月30日 丁酉
  鶴岡の供僧和泉阿闍梨重賀被管の由その聞こえ有りと雖も、別当の悪行に與し奉らざ
  るの由、聞こし食し披らくに依って、本坊に安堵すべきの旨、右京兆御書を下さると。
  勝圓阿闍梨を召され、犯否を尋ね問わるるの処、勝圓申して云く、別当・供僧各々別
  として御祈祷を致す所なり。別当の罪科これに混ゆべからず。但し禅師師範三位僧都
  貞暁入滅の後、受法の御師無きの間、二位家の御定に依って、眞言少々授け奉ると雖
  も、疎学にして御伝授無し。然る間修学の道に就いて、猶以て親近奉らず。況や此の
  如き陰謀を以て仰せ合わさるるべきか。賢察に足るべしと。陳謝その謂われ無きに非
  ざるの間、本職に安堵せしむと。また禅師後見備中阿闍梨の雪の下の屋地並びに武州
  の所領等これを収公せらると。