1219年 (建保7年、4月12日改元 承久元年 己卯)
 
 

*[愚管抄]
  さて鎌倉は将軍があとをば母堂の二位尼惣領して、猶せうとの義時右京権大夫さたし
  て有べしと議定したるよし聞へけり。
 

2月1日 戊戌
  鶴岡の供僧浄意坊堅者良祐、その誤り有るの由讒訴の輩の説に依って、沙汰を経らる
  るの処、謀反の事に相交わらざるの間、また安堵すべきの旨、京兆下知し給うと。凡
  そ一天の大乱宮寺より起こる。四海の安危この時に在り。矧や武将薨御僅か三箇日、
  哀慟の外他事無きか。而るに当宮の御勤めは、関東最初の御願として、治承以来片時
  も退転無し。然る間或いは御使を以て武士の乱入を停止せられ、或いは御書を下し本
  職に安堵せらる。これに依って貫首の伴類に於いては、悉く誅戮せらると雖も、古老
  の僧侶に至りては敢えて牢籠無し。長日の勤行・恒例の神事違い無くして相続かしむ
  るなり。賢慮の至り人これを感ず。敬神の誠世これを知る。
 

2月2日 己亥
  武蔵の国熊谷郷は、右大将家の御時、直實法師的立役辞退の咎に依って、鶴岡に寄附
  せらる。その後事を神税に寄せ、地頭無きが如し。然れども別当の権勢を恐れ愁訴に
  達せざるの処、宮寺使の入部を止め、御年貢を進すべきの由、今日右京兆御書を地頭
  方に下さると。

[愚管抄]
  つとめて京へ申て聞べき。院は水無瀬殿にをはしましけるに、公経大納言のがり、實
  氏などがふみ有ければ、参りてさはぎまどいて申てけり。卿二位は熊野へまうでして
  天王寺につきて候けるに、かくと告ければ、帰らんとしけるを、あなかしこ、なかり
  べりぞと。御使をひをひ三人まではしりければ、やがてまいりにけり。
 

2月4日 辛丑
  備中阿闍梨(悪闍梨後見)の遺跡の屋地、女房三條の局望み申すの間、宛て行わる。
  彼の局は縫殿別当なり。この所冷水を湛えるの地なり。その便を得るが故これを賜う。
  仍って甥の僧少納言律師観豪を以てその留守と為すと。
 

2月5日 壬寅
  下向の上達部・殿上人等帰洛す。始め慶賀の道に鞭を揚げ、今悲哀の唳に纓を霑すと。
 

2月6日 癸卯
  故鶴岡別当闍梨の使い白河左衛門の尉、大神宮に詣で奉幣を遂ぐ。還向の処、三河の
  国矢作の宿に於いて、彼の滅亡の事を聞き自殺すと。
 

2月8日 乙巳
  右京兆大倉薬師堂に詣で給う。この梵宇は、霊夢の告げに依って草創せらるるの処、
  去る月二十七日戌の刻供奉するの時、夢の如く白犬御傍らに見えるの後、御心神違乱
  の間、御劔を仲章朝臣に譲り、伊賀の四郎ばかりを相具し退出しをはんぬ。而るに右
  京兆は御劔を役せらるるの由、禅師兼ねて以て存知するの間、その役人を守り、仲章
  の首を斬る。彼の時に当たり、この堂の戌神堂中に坐し給わずと。
 

2月9日 丙午
  加藤判官次郎京都より帰参す。去る二日入京す。彼の薨御の由を申すの処、洛中驚き
  遽て、軍兵競い起こる。仙洞より御禁制の間静謐すと。

[百錬抄]
  新大納言(忠信卿)関東より入洛す。これ右府拝賀の時扈従として下向せらるるなり。
  左衛門の督實氏卿・宰相中将国通卿・平三品光盛卿・刑部卿宗長卿已下、雲客済々、
  各々追々帰洛せらるべしと。
 

2月13日 庚戌
  寅の刻、信濃の前司行光上洛す。これ六條宮・冷泉宮両所の間、関東将軍として下向
  せしめ御うべきの由、禅定二位家申せしめ給うの使節なり。宿老の御家人また連署の
  奏状を捧げこの事を望むと。

**[愚管抄]
  尼二位使を参らす。行光とて年ごろ政所の事さたせさせていみじき者とつかいけり。
  成功まいらせて信乃の守になりたる者也。院の宮この中にさも候ぬべからんを、御下
  向候て、それを将軍に成しまいらせてもちまいらせられ候へ。将軍が跡の武士今はあ
  りつきて数万候が、主人をうしない候て、一定やうやうの心も出き候ぬべし。さてこ
  そのどまり候はめと申たりけり。
 

2月14日 辛亥
  卯の刻、伊賀太郎左衛門の尉光季京都警固の為上洛す。また同時に右京兆の御願とし
  て、天下泰平の御祈り等を修せらる。天地災変祭已下なり。丑の刻将軍家の政所焼亡
  す。失火と。郭内一宇も残らざるものなりと。
 

2月15日 壬子
  未の刻、二品の御帳台の内に烏飛び入る。申の斜駿河の国の飛脚参り申して云く、阿
  野の冠者時元(法橋全成の子、母は遠江の守時政女)去る十一日多勢を引率し、城郭
  を深山に構う。これ宣旨を申し賜わり、東国を管領すべきの由相企つと。
 

2月19日 丙辰
  禅定二品の仰せに依って、右京兆金窪兵衛の尉行親以下の御家人等を駿河の国に差し
  遣わさる。これ安野の冠者を誅戮せんが為なり。
 

2月20日 丁巳
  夜に入り、或る卿相の書状京都より二位家に参着す。去る六日、故右府将軍の御祈祷
  を致すの陰陽師等、悉く以て所職を停めらる。これ上皇の御沙汰なりと。

**[保暦間記][北條九代記]
  爰に頼朝の舎弟悪禅師全成の子息阿野次郎隆光(尊卑分脈は隆元)、将軍の跡無く成
  るを見て、秘かに宣旨を謀作して謀反を起す。二月二十日打れぬ。
 

2月21日 戊午
  白河左衛門の尉義典悪別当の使いとして大神宮に詣ず。剰え途中に於いて自殺するの
  間、その科に依って彼の遺領を収公せられ地頭を補せらる。相模の国大庭御厨内に在
  るの地と。而るに祭主神祇大副隆宗朝臣、加藤左衛門大夫光員を以て状を進し申して
  云く、義典遺跡の内、外家伝領の御厨分に於いては、輙く収公せられ難きか。神宮に
  返し付けらるべしてえり。仍って即ちその沙汰有り。神宮に付けらるべきの由、今日
  定めらると。
 

2月22日 己未
  発遣の勇士駿河の国安野郡に到り、安野次郎・同三郎入道を攻めるの処、防禦利を失
  い、時元並びに伴類皆悉く敗北するなり。
 

2月23日 庚申
  酉の刻駿河の国の飛脚参着す。安野自殺するの由これを申す。
 

2月29日 丙寅
  武蔵の守親廣入道京都守護の為上洛す。