閏2月12日 戊寅
信濃の前司行光の使者参着す。彼の宮御下向の事、今月一日天聴に達し、仙洞に於い
てその沙汰有り。両所の中一所必ず下向せしめ給うべし。但し当時の事に非ざるの由、
同四日仰せ下さる。この上は帰参すべきかの由これを申すと。
**[愚管抄]
いかにさて此宮所望のことを上皇きこしめして、いかに将来にこの日本国二に分る事
をばしをかんぞ。こはいかにと有まじき事に思召て、えあらじと仰られにけり。其御
返事に、次々のただの人は関白摂政の子なりとも申さんにしたがふべしなど云ただの
御詞のありける。これにとりつきて、又もとより義村が思よりて、この上は左大臣殿
(道家)の御子の三位(教實)の少将殿の子息ゆかりも候。頼朝がいもうとのむまご
うみ申たり。宮かなふまじく候はば、それを下して養ひたて候て、将軍にて君の御ま
もりにて候べしと申てけり。その後やうやうの儀ども有て、先にも御使にくだりたり
きとて、忠綱をまた御使に下しつかはされたりけり。
閏2月14日 庚辰
行光の使者帰洛す。彼の御下向の事、猶以て近々たるべきの由、奏聞を伺うべきの趣
仰せ遣わさると。
閏2月28日 甲午
光季の飛脚参着す。去る二十日戌の刻、頭の中将の青侍と大番の武士等と闘乱を起こ
す。同二十二日夜に入り、彼の勇士等夕郎の亭を襲わんと擬すの由風聞するの間、光
季馳せ向かい、禁制を加うに依って静謐す。然れども使の廰より張本を召さるるの由
これを申す。
閏2月29日 乙未
一條中将信能朝臣二品の御亭に参り申して云く、右府の御旧好を忘れざるに依って、
今に祇候するの処、叡慮頗る不快。剰え去る十九日解官すべきの由御沙汰に及ぶと。
然れば参洛すべきかと。左右無く帰洛せらるべからざるの由、二品の御返答有りと。