1219年 (建保7年、4月12日改元 承久元年 己卯)
 
 

3月1日 丙申
  永福寺別当三位僧都慶幸、鶴岡別当職に遷補す。去る月の宮寺騒動並びに駿河の国兵
  起等の触穢に依って、神事を閣かるるの間、宮務の沙汰に及ばず。また圓如房阿闍梨
  遍曜永福寺別当職に補す。
 

3月8日 癸卯
  内蔵の頭忠綱朝臣上皇の御使として下向す。
 

3月9日 甲辰
  仙洞の御使忠綱朝臣禅定二品の御亭(右府御旧跡)に参る。右府薨御の事、叡慮殊に
  御歎息の由、仰せ下さるるに依ってなり。次いで右京兆に謁し申す。これ摂津の国長
  江・倉橋両庄の地頭職改補せらるべき事以下、院宣の條々なり。
 

3月11日 丙午
  今暁御使忠綱朝臣帰洛す。申の刻伊賀太郎左衛門の尉光季の飛脚参着す。去る月晦日、
  江州に謀叛の輩有るの由風聞するの間、今月一日より同四日に至るまで、捜し求むと
  雖もその実無し。但し疑胎有り。一両輩生虜る。これ刑部僧正長賢一族の由これを申
  す。
 

3月12日 丁未
  右京兆・相州・駿州・前の大膳大夫入道二品の御亭に参会す。忠綱朝臣を以て仰せ下
  さるる條々、追って上啓すべき由御返事を申されをはんぬ。急速左右無くば、定めて
  天気に背くかの由評議有りと。
 

3月15日 庚戌
  相州二位家の御使して上洛す。扈従の侍千騎と。これ今度忠綱朝臣を以て仰せ下さる
  る條々の事の勅答、並びに将軍御下向の事等なり。
 

3月17日 壬子
  日光陰無し。頗る薄蝕の如し。月またこれに同じ。去る十三日以後この変連日の事た
  り。
 

3月26日 辛酉
  駿州彼の国に下着し給う。これ富士浅間宮以下神拝の為なり。去る正月二十二日守に
  任じ給うと雖も、国郡の騒劇連続するの間、今に延引すと。

[愚管抄]
  公卿の勅使たてられけるに、宸筆宣命には文武の長のうせぬる由には、去年冬左大臣
  良輔朝臣、今年春実朝此の如くうせぬる。驚きをぼしめすよしこそのせられたりけれ。

[百錬抄]
  公卿勅使を発遣せらる。内大臣右大将通光公なり。大臣使いを為す、希代の事なり。
 

3月27日 壬戌
  巳の刻甚雨。雹降り雷鳴。
 

3月28日 癸亥
  信濃の前司行光京都より帰参す。これ相州上洛の間下向する所なり。病痾に依って両
  三日路次に逗留すと。