1219年 (建保7年、4月12日改元 承久元年 己卯)
 
 

4月2日 丁卯 [百錬抄]
  午の刻、近衛町の辺火事出来す。出雲路東出川原に及ぶと雖も、禅定太閤鷹司室町亭
  ・関白土御門亭已下公卿・大夫の家多く以て焼亡す。法成寺堂舎五宇(薬師堂・講堂
  ・東堂・経蔵)・東面門・東塔・惣社・南大門・左右脇門、祇陀林圓勝寺塔三基・鐘
  楼・西面門、金剛勝院等焼亡す。天下の火災なり。
 

4月12日 丁丑 [百錬抄]
  改元の事有り。建保を改め承久と為す。炎旱・火災に依ってなり。


6月18日 [承久記]
  右大将公経卿の外孫、摂政殿下の三男、寅歳寅日寅時に生れ給へば、童名は三寅と申
  若君を、鎌倉に下奉る。諷諫には伊予中将実雅、後見に右京権大夫義時とぞ定め下さ
  れける。爭か二歳にてはとて、三と云名を付奉りて、十八日より二十日まで、年始元
  三の儀式を始め御遊あり。七社詣して鎌倉に坐す。
 

6月25日 [愚管抄]
  二歳なる若公、正月寅月の寅の歳寅時うまれて、誠にもつねのをさなき人にも似ぬ子
  の、占にも宿曜にもめでたく叶ひたりとて、武士どもむかへに上りて下し遣されにけ
  り。

[皇帝紀抄]
  今暁左大臣第四息の童関東に下向す。将軍たるべきの由申請するに依ってなり。
 

6月26日 [承久記(古活字本)]
  去程に、関東より御迎に参輩、三浦太郎兵衛尉・同平九郎左衛門尉・大河津次郎・佐
  原二郎左衛門尉・同三郎左衛門尉・天野左衛門尉・子息大塚太郎・筑後太郎左衛門尉
  ・結城七郎・長沼五郎・堺兵衛太郎・千葉介、以上十二人ぞ参りける。先陣三浦太郎
  兵衛尉友村、後陣千葉介胤綱とぞ聞し。角て都をたたせ給ひて御下向あり。相模国国
  村に五日御逗留。七月十九日鎌倉へ下着あり。近く御迎に参る輩、島津左衛門尉・伊
  藤左衛門尉・小笠原六郎、是等を始として十人の随兵也。